● 2011/11/06[2006/07]
『
解説-「D-3」プロジェクトに参加して
大ベストセラー『日本沈没』には最初から第二部が予定されていた。
上下二巻に分かれたあの作品の巻末に
「第一部 完」
と記されていたことからも、それは明白である。
今さらいうまでもないことだが、『日本沈没』は地球のダイナミックな活動に巻き込まれ、日本列島全体が海底に消えてしまう物語である。
「沈没」の詳細なメカニズムと、迫力に満ちた描写が圧倒的な印象を残す。
しかし、小松左京がこの小説を書こうと思ったきっかけは別のところにあった。
『小松左京自伝』には『日本沈没』の執筆について次のように書かれている。
「
書きはじめた動機は戦争だった。
本土決戦、一億玉砕で日本は滅亡するはずが、終戦で救われた。
それからわずか20年で復興を成し遂げ----(中略)----高度成長に酔い、浮かれていると思った。
----(中略)----のんきに浮かれる日本人を、虚構の中とはいえ国を失う危機に直面させてみようと思って書きはじめたのだった。
日本人はとは何か、日本とは何か、を考え直してみたいとも強く思っていた。
」
つまり、日本が滅亡する危機に直面した状況を作り出すことが第一であり、国土の沈没はその方便であったといってもいいだろう。
書きはじめた当初、作品タイトルは『日本滅亡』にしようと小松左京は考えていた。
「沈没」ではなく、あくまで「滅亡」が念頭にあったのである。
とりあえず切りの良い所で出版社に渡され、『日本沈没』というタイトルで世に出た作品は、「滅亡」のはじまりが語られただけにすぎない。
だから「第一部 完」の文字が巻末に記されることとなった。
しかし、
「日本が滅亡したあと、生き残った日本人タチが流浪の民になって世界各地で生き延びようと試みる」(『小松左京自伝』という第二部
--というか、意図した作品の主たる部分--
は、その後、書かれることなく、30年が経過した。
なぜ第二部がすぐに書かれなかったのか。
読者も(そして出版社も)待望していたはずなのに、なぜ作者は筆を執ることができなかったのか。
その理由について、再び『小松左京自伝』から引用してみよう。
「
すぐ書くつもりだった続編はなかなか書けなかった。
私自身が忙しくなったし、日本も大きく変わった。
高度成長は終焉を迎え、構想が次々に浮かび、消えていった。
だが『日本沈没』を完成させたいという思いはいつも念頭にあった。
」
2003年の10月、小松左京事務所"イオ"から電話があった。
内容は『日本沈没 第二部』出版のプロジェクトを立ち上げるので参加しないか、という打診だった。
高齢となった小松左京自身が筆を執ることはできないが、若手との共作という形で長年の願いを叶えたいというのである。
この機会を逃しては、この先ずっと後悔するだろう。
ぜひやらせて下さい、と返事して受話器を置くとすぐに『日本沈没』のあれこれが頭の中で渦を巻いた。
遠い記憶のことではない。
1995年の阪神大震災直後に緊急出版された『日本沈没』光文社文庫版の解説を担当し、そこに詰め込まれた情報の幅の広さと深さにあらためて感嘆したこと。
また、この電話があった前の年、<小松左京マガジン>に短編を書いた際に、舞台設定を日本列島沈没後の世界にさせてもらったこと。
こうしたことで、結果的に自分は評論家の頭と小説家の頭、両方を使って『日本沈没』第二部を構想する準備をしていたのかもしれない。
「D-3」と名づけられた第二部出版のプロジェクトは、11月1日、イオ事務所で始動した。
小松左京、執筆者に決まった谷甲州、そして乙部順子、編集者、私がメンバーとなり、取材と会合を重ねた。
先にふれたように、検討すべきことは無数にあった。
それらは大きく4つの範疇に分けることができるかもしれない。
一つは、自然環境の激変。
列島沈没後の世界はどうなるのか。
東アジアの島弧が海底に沈むという現象は、さらなる地球規模の前触れではなかったのか。
それはどのようなものなのか。
二つめは、政治的・社会的変化の行方。
国土を失った日本人は、何処で、どのようにして生き延びてゆくのか。
国際社会は彼らをどう扱うのか。
領土・国民・主権という国家の三要素の一つを失って、なを日本は国家として成り立つのか。
その場合、経済基盤はどうなるのか。
政府はどこに置かれるのか。
三つめは、そもそも日本とはどういう国なのか。
国土を失い、世界に出ていった時、国民はどのように考え、行動するのだろうか。
四つめは、小説の骨格となるドラマをどのようなものにするか。
第一部のラストで記憶を失ったヒーロー・小野寺俊夫の運命は。
姿を消したヒロイン・阿部玲子との再開はあり得るのか。
一世代後の新たなヒーロー、ヒロインはどのようなものになるのか。
彼らが織り成す物語は?
小説の中では、これらがばらばらに処理されるのではなく、有機的に絡まり、複雑に関係する諸問題が登場人物たちの行動を呼び覚まし、ドラマを形成する必要がある。
そうでなくては、小松左京の作品とは成り得ない。
宇宙的、地球的規模の大問題と、個人の生き方が響きあい、実存の叫びを呼び覚ます--それが小松作品の真骨頂である。
これを外すことはできない。
すべての土台となるのは小松左京の抱く構想だった。
一の「自然環境」についていえば。1974年に気象学者の根本順吉や地球物理学者の竹内均らとのシンポジウム形式でまとめた
『地球が冷える 異常気象』(小松左京編・旭屋出版)
という本がある。
巨視的に見た地球環境の変遷と、人類文明との関連を考えると、穏やかな気候のもとで食料や住居に恵まれた現代は僥倖に過ぎないのではないかと考えざるを得ない。
人間にとって過酷な環境が出現するのは必然ではないか。
それはどのようなものになるのか。
氷河期の襲来--というのが、第二部を構想するにあたって、小松左京の念頭にあったアイデイアだった。
その結果起きた事態における具体的場面も思い描いている。
しかし、現在は温室効果ガスによる温暖化が明らかになった。
両者をどう折り合わせるか。
筆を執るのを阻む要因の一つだったにちがいない。
二の「政治的・社会的変化」に関しては、イスラエル建国に至ったユダヤ人の運命が気になるところだ。
彼らと日本人はどこが違い、どこが似ているのか。
「第二の日本」を建国するとすれば、場所はどこになるのか。
難問である。
三番目の、「日本と日本人」の問題も難しい。
実際、各国へ移民した人たちや、その子孫はどうなっているのだろうか。
日本人であることからくるナショナリズムと、「地球市民」たるコスモポリタニズムはどのように対立し、折り合いをつけるのか。
ちょっとやそっとの取材や討論では結論が見えそうもない問題ばかりである。
しかし、小松左京はこうした問題の裾野から先端まですべてをインプットしたうえで、フィクションとしての虚構を構築してきた。
今回も可能な限り、踏襲する必要がある。
「D-3」のメンバーはそのために各自で調査し、あるいは全員で取材に赴いた。
何人もの専門家に会い、いくつもの施設を見学した。
いつの場合でも小松左京が先頭にたって質問を投げかけ、また、自らの見聞に基づく意見を述べていた。
とりわけ関西における何度かの取材では、地元の強みということだろうか、適度にリラックスしながら、鋭い知的会話を楽しんでいたように思う。
先端のさまざまな知識や研究者たちに触れるという意味でも、あるいは、小松左京の取材スタイルを知るという意味でも、こうした経験は私自身にとって、得がたい勉強となった。
中でも特に印象が深いのは2004年7月、海洋研究開発機構横浜研究所を訪れての地球シュミレータ見学である。
当時、世界最高の性能を誇ったスーパーコンピュータをこの目で見、研究者の説明を聞くというとびきりの取材が出来ただけでなく、突然の落雷のために非常電源に切り替えられる瞬間に立ち会うという幸運(?)に巡りあえたのだ。
施設内のあかりが落ち、非常灯のみで照らされる中、係の人の誘導でスパコンの「体内」から避難した。
インジケーターランプが一瞬にして切り替わり、データがバックアップされていく様子がとてもスリリングだった。
地球シュミレータの持つ可能性自体が刺激的だったことはいうまでもない。
さまざまな自然現象をスパコンで追認し、メカニズムを解明するという研究方法は、従来の「仮説と実験」に頼る科学の方法を劇的に変えつつあるという時間を得た。
現場では谷甲州が人一倍目を輝かせていた。
「あ、何かが彼の中にインプットされたな」
と思ったものである。
ともあれ、多くの準備を重ねた上で、谷甲州が実際の執筆に取り掛かったのが2005年春頃だったろうか。
その後も地球深部探査船「ちきゅう」見学など、いくつかの取材を続けながらの執筆となった。
単行本の刊行は2006年夏(2006年7月)。
樋口真嗣監督による映画『日本沈没』の後悔と同時期ということもあり、相俟って多くの人々関心を呼んだ。
文庫本刊行を期に、さらに多くの読者に楽しんでいただけることを祈っている。
--文中敬称略させていただきました。
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[ ふみどころ:2012 ]
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