2012年12月8日土曜日

: 民族の移動とローマ体制の限界

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● 2002/09/01[[1994/08]


『 
 人間とは、食べていけなくなるや必ず、食べていけそうに思える地に移動するものである。
 これは、古今東西変わらない現象である。
 この種の民族移動を、古代では蛮族の侵入と呼び、現代ならば難民の発生という。
 古代ローマでも、この種の民族移動を、ローマが存続している限り忘れることはゆるされなかった。
 食べていけなくなった人びとの移動が、平和的になされるか暴力的になされるかは、たいした違いではない。
 いかに平和的に移ってこられても、既成の社会をゆるがさないではおかない。
 民族の移動とは、多少なりとも暴力的にならざるをえなくなるをえないのである。
 この難問に直面するたびに、ローマ人がどのようにそれに対処していったかは、ほとんどローマ史そのものと重なってくる。

 紀元前390年に、ケルト人(ガリア人)に首都を一時にしろ選挙されるという苦い経験をもつローマ人は、蛮族の侵入を、まず武力で排除することを考え実行した。
 しかし、余裕がある時代---先々のことを考えて対策を立てる余裕をもてた時代---は、侵入を待ち受けるのではなく、自分から蛮族の住む地に出向き、彼らを征服するやり方をとった。
 征服した後でローマ式の、つまり街道網を整備し植民都市を建設したりしての「インフラ整備」を行うことでローマ化(ローマ人の考えでは文明化)を進め、蛮族が自分たちの地でも食べていけるようにした。
 ただし、このローマ式やり方は、現代では、侵略路線であり帝国主義であると断じられて評判が悪い。
 現代では、同じ問題を人道主義で解決しようとしている。
 ただし、解決しようと努力しているのが現状で、解決できたわけではない。

 ガイウス・マリウスは、徴兵制を志願制に変えることで軍制改革を、紀元前107年に実行していた。
 前103年、新生なったローマ軍団は、その産みの親マリウスに率いられ、アルプスを越えて南仏に入った。
 ところが、蛮族はガリア(現フランス)の中西部に居座ったままで動きを見せない。
 総司令官マリウスは、大気中の兵士が無為に時を過ごすことで軟弱化するのを防ぐために、運河工事をさせることにした。
 これは後々まで「マリウス運河」と呼ばれ、マルセーユとフランス内陸部の間の物品の流通に益することになった。
 つまりローマ軍は待機中でも属州の「インフラ整備」に務めていたのである。
 このときから、駐留軍のローマ軍が公共土木事業に従事する習慣が定着する。
 
 移動を再開したゲルマン人は、戦闘員である成年男子の数だけでも、30万人におよんだという。
 女子供はもちろんのこと家畜まで引き連れ、荷馬車に何もかも積み込んでの民族の大移動である。
 これだけの数の人間が、ヨーロッパではどこよりも食べるものが豊富であるとの評判の、イタリアを目指して移動を開始したのだ。

 「アクエ・セクステイエ戦」として有名な、マルセーユから20キロ北で行われた戦闘は、ローマ軍の圧勝に終わった。
 10万以上のゲルマン人が、死ぬか捕らわれるかして全滅した。
 紀元前101年の春、ローマの全軍は、蛮族が南下しはじめるのを待たずに、彼らの方からポー河を越える。
 戦闘はローマ軍の完勝に終わった。
 マリウスが改革したローマ軍団が、中隊も小隊もまるで盤上の駒のように、指揮官たちの指図どうりに見事に働いたからである。
 一方、ゲルマン人の闘い方は、数で優勢でも、押す一方でしかなかった。
 降伏することを拒否して自死を選んだ女たちまでを含めて、12万人ものゲルマン人が死んだ、
 捕虜になったのは、6万に達する。
 南仏と北伊と続けて敗北したゲルマン人は北ヨーロッパに逃げ戻った。



 人間とは、眼の前に突きつけラレでもしない限り、眼をひらかないものである。
 「混迷」とは、敵は外にはなく、自らのうちにあることなのである。

 大衆とは何時の世でも、権力者や富裕階級への批判は喜んで聞くものである。
 現代のイギリスの研究者は次のように書いている。
「 無恥な大衆とは、政治上の目的でなされることも、私利私欲に駆られてのことであると思い込むのが好きな人種である」
 要は、教養の有無でも、時代の違いでも文化の違いでもない。
 目的と手段の分岐点が明確でなくなり、手段の目的化を起こしてしまう人が存在するかぎり、この批判の有効性は失われないのである。

 恵まれた階級以上に頑迷な守旧派と化す「プアー・ホワイト」はいつの世にも存在するのである




 力の激突が予想されるにらみ合いでは、双方ともが掃討なプレッシャーに耐えねばならない。
 そして、最初に行動を起こすのは、この機を逃せば好機は二度とめぐってこないと信じて決断したときか、または、プレッシャーに耐え切れなくなった場合である。

 戦争とは、それが続けられるに比例して、当初はいだいてもいなかった憎悪まで頭をもたげてくるものだ。
 何のために闘っているのさえわからなくなる。
 ただ、憎悪だけが彼らを駆り立てる。
 内戦が悲惨であるのは、目的が見えなくなってしまうからである。



 イエス・キリストは、人間は「神」の前に平等であると言った。
 だが、彼は「神」を共有しない人間でも平等である、とは言ってくれていない。
 それゆえ、従来の歴史観では、古代よりも進歩しているはずの中世からはじまるキリスト教文明も、奴隷制度を全廃してはいない。
 キリスト教を信じる者の奴隷化を、禁止したにすぎない。
 だから、ユダヤ教信者を強制収容所に閉じ込めるのは、人道的には「非」であっても、キリスト教的には、完全に非であると言い切ることはできない。
 アウシュビッツの門の上に掲げられてあったように、キリスト教を信じないために自由でない精神を、労働で鍛えることで自由にする、という理屈も成り立つからである。

 キリスト教を信じようが信じまいが、人間には「人権」というものがあるとしたのは、18世紀の啓蒙思想からである。
 ゆえに、奴隷制廃止をうたった法律は、1772年のイギリスからはじまって1888のブラジルにいたる、一世紀間に集中している。
 とはいえ、法律ができても人間の心の中から、他者の隷属化に無神経な精神までが、完全に取り除かれるわけではないのである。



 システムのもつプラス面は、誰が実施者になってもほどほどの成果が保証されるところにある。
 反対にマイナス面は、ほどほどの成果しかあげないようでは敗北してしまうような場合に、こうむる実害が大きい点にある。
 ゆえに、システムに忠実でありうるのは平時ということになる。
 非常時には、忠実でありたいと願っても現実がそれを許さない、という事態になりやすい。
 だからこそ柔軟性を持つシステムの確立が叫ばれることになるのではあるが、これくらい困難なこともないのである。

 有能な指揮官に率いられないかぎり、戦力の効率のいい発揮は不可能事であり、効率のよい活用のないところでは、それは即、実害にむすびついてしまう。

 いかに戦略戦術の天才が率いようと、戦力の小さい軍隊には欠点もある。
 戦闘が優先するあまりに、外交面がおろそかにならざるを得ないという点である。
 つまり、闘わずして勝つ、という課題に割く余力があまりない、ということだ、
 無言の圧力をかけるのは、何と言っても「量」であるからだ。



 ツキデイデスは、著作『ペロポネソス戦史』の中で、「大国の統治には、民主政体は適していない」とまで言っている。
 民主政だけが、絶対善ではない。
 民主政もまた他の政体動揺に、プラス面とマイナス面の両面をもっており、運用次第では常に危険な政体なのである。
 
 歴史学者や政治学者たちが、為政者に確固とした政治目標を求めるのは、それはそれで理(ことわり)である。
 確とした政治目標なしに、政治をしたりすると、政策は前後のゆれうごくことが多く、結果として国力の浪費につながる。
 だが、視点を、統治される側に移してみたらどうであろう。
 統治する側の確固とした政治目標の有無にかかわらず、結果が良かったらそれで結構、という評価もできはしないか。



 人間の幸せには、客観的な基準は存在しない。
 それを精神のことに限れば、コミュニケートがある、ということは、人を充分に幸せにする。
 とはいえ、「コミュニケート」とは、ともに過ごす時間が多ければ多いほど、コミュニケート度も高くなるというものではない。
 なにしろ主観的なのだから、相手にコミュニケート充分、と感じさせればよいのである。







[ ふみどころ:2012 ]


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★ ローマ人の物語Ⅲ勝者の混迷: 塩野七生

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● 2002/09/01[[1994/08]



 地中海世界の勝者になったローマであるのに、それは富裕階級の富裕度がケタ違いに向上したことが示しているのだが、それなのになぜ、共和政ローマの中核であった一般市民の数が減少するような事態が起こってしまったのか。

 社会不安はしばしば経済不安からはじまる。
 経済不安は、失業者の増加という形をとって姿をあらわす。

 富が必要以上に増えれば、ほとんどの人は投資を考える。
 しかも投資先には土地が最善であると思うのは、古今東西変わらない。
 では、共和政ローマに、投資を可能にするだけの土地はあったのか。
 共和政ローマは、イタリア半島制覇の時代でも、戦いに勝っても相手の都市も市民も滅ぼさずに、そのかわりに相手のもつ土地の一部を没収して、ローマの国有地とするやりかたをとってきた。
 紀元前140年当時の国有地の総計は、ローマの全領土の1/7に当たっていたという。
 これらの国有地は、ローマ市民に貸し与えられた。
 借地料は、小作料と考えれば、妥当過ぎるくらいの金額であった。
 国有地の借地権には、子孫への相続も認められていたし、他者への譲渡すらも禁じられていなかった。
 実際上はもはや私有地と言ってよい。
 ただし、法的にはあくまでも、国有地であったが。

 この国有地に、余剰資金が流れ込んだ。
 ローマにはドレイという、安い労働力が多量に入ってきた。
 ローマ市民は兵役の義務を背負っていた。
 一方、労働力としてのドレイの魅力は、ローマ市民でないため兵役を務める義務がなかった。
 一人前の市民が義務である兵役を務めて帰郷してみれば、留守中の家族労働で得た収穫物は、多数のドレイを使う大規模農園に価格競争で敗れ、苦境に陥っていた。
 その苦境を乗り越えようと借金をする。
 だが、それも、所詮無駄なあがきにすぎない。
 問題はローマの農民の勤労意欲にあったのではなくて、ローマの農業の構造の変化にあったのである。

 ローマ人によるドレイの定義は、
 「自分で自分の運命を決めることが許されない人」
である。
 ドレイには、兵役も税金も免除されていた。
 自分の運命を自分で決める権利を完全にもっていない人には、義務も課せられなかったのである。

 大規模な農園を兵役に徴用されないドレイという安定した労働力を使って経営するようになれば、収益は増大する。
 ローマの国全体からみれば、農業生産は増大する。
 経済的良いことは、社会的にも良い結果をもたらすとは限らない。
 それは、借金のかたにとられたり、価格競争に敗れて手放したりして土地を失った、元自作農の失業者が出現した。
 彼らは、富の集中する首都ローマに流れ込んだ。
 推計によれば、ローマの人口の7%にも及んだという。
 これはもう立派に社会問題である。

 といって、福祉を充実させれば解消する問題ではない。
 「失業者とは」ただ単に、職を失ったがゆえに生活手段を失った人びとではない。
 社会での自らの存在理由を失った人びとなのだ。
 多くの普通人は、自らの尊厳を、仕事をすることで維持していく。
 ゆえに、人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、
 福祉では絶対に回復できない。
 職をとりもどしてやることでしか、回復できないのである。

 テイベェリウス・グラクスは紀元前163年の生まれである。
 マリウスは、前157年の生まれである。
 ガイウス・グラックスは、前154年の生まれだった。
 三者とも同時代人であったと言っていいだろう。
 結果としてならば三人とも、失業対策にかかわったことになる。
 グラックス兄弟は意図的に、一方のマリウスは非意図的に。
 そして、グラックス兄弟の構想は彼らの死によって中絶した。
 だが、マリウスは、あっけないくらいに簡単に実現させてしまったのであった。

 執政官マリウスは、正規軍団の編成を、従来のような徴兵制ではなく、志願兵システムに変えたのである。
 これによって、ローマの軍役は、一人前の市民にとっての義務ではなく、職業に変わった。
 マリウスの呼びかけに応じて志願してきたローマ市民の大半は、農地を失ったりして失業者になっていた人びとである。
 市民兵に支払われていた兵役中の経費は、志願兵の給料になった。
 志願制に変えたことによって、失業者を吸収し、当然のことながら長期に兵を使うことができるようになった。
 このことによって、最高司令官を頂点とする将官階級と一般兵士の関係が、より緊密になった。

 すべての物事は、プラスとマイナスの側面をもつ。
 プラスの側面しかもたないシステムなど、神業であっても存在しない。
 ゆえに改革とは、もともとマイナスであったから改革するのではない。
 当初はプラスであったものが、時がたつにつれてマイナス面が目立ってきたことを改める行為なのだ。
 ローマ軍の機能性を回復しようとしてなされたマリウスの改革にも、ほどなくマイナス面があらわれてくる。
 ローマ軍団の「私兵化」がそれだ。
 マリウスの軍制改革こそ、後のスッラ、ポンペイウス、カエサル(シーザー)登場の土壌を準備したということになる。






[ ふみどころ:2012 ]


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2012年12月1日土曜日

:「マーレ・ノストウルム」、われらが海

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● 1993/10/10[1993/08/07]



  ザマで敗れたカルタゴに対してローマはたとえ自衛のためであろうと、ローマの許可無しには戦いをすることを禁じ手いる。
 自主的な交戦権を認めないということであった。
 これではカルタゴは、完全な独立国であるとはいえない。
 しかし、カルタゴの内政には、ローマはまったく干渉していない。
 
 日本人である私にとって特に興味をひかれるのは、ここには勝者と敗者しかいないという事実である。
 正義と非正義とに分けられてはいない。
 戦争は犯罪である、とは言っていない。
 もしも戦争犯罪者の裁判でもおこなわれていたならば、ハンニバルがまず、戦犯第一号であったろう。

 戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者ではなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろうあk。
 分けたからといって、戦争が消滅したわけではないのだが。





 「介入」とは、それが政治的であれ経済的であれ、また軍事的であろうと何であれ、あいてとかかわりをもったということである。
 そして、そのかかわりとは、継続を不可避にするという性質をもつものでもある。
 
 他者よりも優れた業績をなしとげたり有力は地位にのぼった人で、嫉妬から無縁の過ごせた者はいない。
 ただし、嫉妬は、それをいだいてもただちに弾劾や中傷という形をとって表面化することはまずない。
 嫉妬は隠れて機会をうかがう。
 機会は、相手に少しでも弱点がみえたときだ。
 スキャンダルは、絶対に強者を襲わないのである。



 歴史を後世から眺めるやり方をとる人の犯しがちな誤りは、歴史現象というものは、その発端から終結に向かって実に整然と、つまり必然的な勢いで進行したと考えがちな点にある。
 ところが、ほとんどの歴史現象は、そのように綺麗に進むことはない。
 試行錯誤を繰り返し、迷って立ち止まって、まったくの偶然でとある方向に曲がったりしたあげくに、後世から見ると必然と思われる結末にたどりつくものなのである。

 第二次ポエニ戦争でローマに敗れ以来半世紀の間というもの、カルタゴ人は、ローマの覇権の許で平和に生きてきた。
 このカルタゴの滅亡は、二重にも三重にも重なりあって起こってしまった、不幸な偶然がもたらした結果であったとしか思えない。

 カルタゴを滅亡させたことによって、ローマはまもなく、新たな問題を抱え込むことになる。
 それはヌミデイア(現アルジェリア)の強大化に歯止めをかけることのできる存在を、抹殺してしまったことにあるからである。



 すべては、紀元前264年からの第一次ポエニ戦役に始まった。
 カルタゴをくだして西地中海の覇者になった「ハンニバル戦争(第二次ポエニ戦役)」終了後から数えれば、ローマが全地中海の制覇に要した歳月は、70年足らずにすぎないのである。
 ポリビウスならずとも驚くべき現象であり、当時の多くの人びとも、想いはおなじであったろう。
 
 すべては、ハンニバルから発するのでらう。
 130年間を取り上げた本書でも、16年間でしかない第二次ポエニ戦役の叙述に、巻の2/3の紙数が費やされている。
 歴史家リヴィウスも、著作『ローマ史』の中での「ハンニバル戦争」に費やした分量を振り返って、この戦争のローマ人に与えた影響の大きさを、改めて再認識しているほどだ。

 ローマの壊滅を生涯の悲願としたハンニバルは、他の誰よりもどの国よりも、ローマを強大にするのに力を貸してしまったことになる。
 地中海全体を、これほども短期間のうちにローマ人の「われらが海:マーレ・ノストウルム」にしてしまったのは、ハンニバルであったとおもうしかない。

 しかし、成功者には、成功したがうえの代償がつきものである。
 ローマ人も、例外ではなかった。
 『ローマ人の物語』のⅢ巻になる次の巻では、覇者になって以後のローマ人の所行を書いていくつもりである。






[ ふみどころ:2012 ]



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2012年11月27日火曜日

:ハンニバルとスキピオ、そしてアルキメデス

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● 1993/10/10[1993/08/07]



 宗教を信ずるか信じないかは、所詮は個人の問題である。
 ただ、信ずる者の多い共同体を率いていく立場にある者となると、個人の信条に忠実であればよい、ということにはならない。

 戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来が決まってくる。
 勝敗は、もはや成ったことゆえにどうしようもない。
 問題なのは、それで得た経験をどう活かすかである。

 ローマ人の面白いところは、なんでも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。

 ローマ人は、今の言葉で言う「インフラ整備」の重要さに注目した、最初の民族ではなかったか。
 インフラストラクチャーの整備が生産性向上につながることは、現代人ならば知っている。
 そして、生産性向上が、生活水準の向上につながっていくことも。
 後世で有名になる「ローマ化:ロマニゼーション」とは「インフラ整備」のことではなかったか。
 そして、ローマ人がもっていた信頼出来る協力者は、この「ローマ化」によって、ローマの傘下にあることの利点を理解していた、被支配民族ではなかったか。
 ローマ人の「インフラ整備熱」は、独立した同盟国であろうと属州であろうと、差別はしなかった。
 なにしろ、彼らにとってインフラ整備の主要目的は、軍隊の敏速な移動、にあったのだから。

 マニュアル的で、何事につけてもシステム化することの好きだったローマ人の性向がうかがわれて微笑するしかないが、しかし、ローマ人には、マニュアル化する理由があったのだ。
 指揮官から兵隊から、毎年変わるのである。
 誰がやっても同じ結果を生むためには、細部まで細かく決めておく必要があった。
 ローマ人は徹底していた。
 たった一晩使う宿営地ですら、実に律儀にマニュアル通りに建設したのである。
 また、マニュアルのほうもよく出来ていて、帝政時代になっても変える必要がなかった。
 それどころか、ローマ人は、この宿営地建設のシステムを新都市建設にも適用していくのである。

 責任の追求とは、客観的で誰にでも納得させうる基準を、なかなか持てないものだからだ。
 それで、ローマ人は、敗北の責任は誰に対しても問わない、と決めたのだ。
 それでは戦死した者が浮かばれないではないか、となりそうだが、長期的利点、つまり共同体の利益という視点に立てば充分浮かばれるのである。
 国論が二分していては、国力の有効な発揮は実現しない。
 国論が統一された結果、国力も有効に発揮されれば、犠牲も少なくてすむようになる。
 人間とは、自分自身の犠牲は甘受する覚悟にはなれても、自分の子までが支配階級の無能の犠牲になるのまでは、甘受する気にはなれないからである。



 天才とは、その人だけに見える新事実を、みることのできる人ではない
 誰もが見ていながらも、重要性に気づかなかった旧事実に気づく人のことである。 

 人にとって、これまではずっと有効であったことを変革するくらい、困難なことはない。

 高齢者だから、頑固なのではない。
 並の人間ならば肉体の衰えが精神の動脈硬化現象につながるかもしれないが、優れた業績をあげた高齢者に現れる、頑固さはちがう。
 それは、優れた業績をあげたことによって、彼らが成功者になったことによる。
 年齢が、頑固にするのではない。
 成功が頑固にする。
 そして、成功者であるがゆえの頑固者は、状況が変革を必要とするようになっても、成功によって得た自身が、別の道を選ばせることを邪魔するのである。
 ゆえに抜本的な改革は、優れた才能を持ちながら、過去の成功には加担しなかったものによってしか成されない。
 しばしばそれが若い世代によって成し遂げられるのは、若いがゆえに、過去の成功に加担していなかったからである。





 紀元前213年の春を期して、シラクサ目指して南下したローマ軍だったが、降伏勧告を拒否したシラクサへの攻防戦をはじめてからは、まるで元気がなくなってしまった。
 シラクサが全都をあげて、必死の攻防戦に立ち上がったからではない。
 シラクサの都市部が天然の要害の地に位置していたこともあるが、原因はそれだけではない。
 シラクサにはアルキメデスがいたのである。
 一人の人間の頭脳の力が4個軍団にも匹敵する場合があることを、ローマ人は体験させられることになる。

 攻撃を続ければ続けるほどローマ軍の人的物的犠牲が大きくなるのは、陸側海側を問わなかった。
 顔を見えない敵(アルキメデス考案の新兵器)の活躍に、ローマ兵はすっかり意気消沈してしまう。
 船上で自軍の苦戦ぶりを見ていた総司令官マルケルスは、豪快な性格の男でもあったので、周囲の将官にむかって冗談を言った。
「アルキメデスは、まるで水を満たした杯を放り投げるように、海から船をすくい上げては放り出す。
 サンプカは、宴から追い出された楽師のようだ」
 攻撃用ハシゴは、形が似ているところから、サンプカという楽器の名で呼ばれていた。
 また、演奏が下手な楽師は、宴から’追い出されるのが報酬だった。

 アルキメデスの名は、ローマ軍内でもすでに有名になっていたのであろう。
 マルケレスは、別のときに、
「老いぼれ一人に振り回されるとは何事だ」
と嘆いている。
 数学という、ローマ軍とは別のことながら2200年後の高校生までも悩ませることになるアルキメデスは、その年、75歳前後であったかと思う。
 その年、紀元前213年のシラクサ攻略は、アルキメデス一人のために成らなかったのである。



 ハンニバルとスキピオは、古代の名将五人をあげるとすれば、必ず入る二人である。
 現代に至るまでのすべての歴史で、優れた武将を十人あげよといわれても、二人とも確実に入るに違いない。
 歴史は数々の優れた武将を産んできたが、同じ格の才能をもつ者同士が開戦で対決するのは、実にまれな例である。
 その稀な例が、ザマの戦場で実現しようとしていた。


 優れたリーダーとは、優秀な才能によって人びとを導いていくだけの人間ではない。
 率いられていく人びとに、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。
 持続する人間関係は、必ず相互関係である。
 一方的関係では、持続は望めない。



[ ふみどころ:2012 ]



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:ハンニバルのアルプス越え

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● 1993/10/10[1993/08/07]




 冒険好きだけでは、冒険はできない。
 そうなると、なぜアルプス越えを強硬したのか、という疑問が頭をもたげてくる。
 結論を先に言えば、ハンニバルには他に選択の余地がなかったのだと思う。
 戦場は、ローマの地元、イタリアでなければならなかった。

 同時代人に比べて彼が断じて優れていたのは、情報の重要性に着目していたことである。
 イタリア側に住むガリア人もフランス側に住むガリア人も、家畜などを連れてアルプスを越えて往来していたことをハンニバルは知っていた。
 ハンニバルは、原住民であるガリア人のやっていることを、大群を率い象まで連れるという、大規模な形で実行しようとしたのである。
 この「アルプス越え」は、冒険であっても、冷静な計算のうえに立って実行された冒険であった。

 ハンニバルの行動を相当な程度に追うことができるのは、アレクサンダー大王に見習ったのかハンニバルが記録者を同行したからである。
 ハンニバルのギリシャ語の教師でもあったその男は、シレヌスという名のギリシャ人であった。
 一方、ローマ側にも記録者がいる。
 ハンニバルとは完全に同時代人で、元老院議員を務めていたファビウス・ピクトルだった。
 ただし、この二人の著作は現存していない。
 とはいえ、古代人なら読めたのだ。
 ハンニバルが46歳であった年に生まれたポリビウスと、この200年後の人であるローマ人のリヴィウスは二人とも、この二大原史料を参考にしたと書いている。

 この二人によれば、本拠地カルタヘーナ(スペイン)をあとにしたハンニバルが率いていた軍勢は、歩兵9万、騎兵1万2千、そして37頭の象であった。

 しかし、29歳の若者は、この全員をイタリアまで連れていけるとも思っていなかったし、連れていこうとも思っていなかった。
 兵量確保の困難が予想される、敵地に攻め込むのである。
 実際、エブロ川を渡った時点で、ピレネー山脈からエブロまでの防衛に、歩兵1万に騎兵1千を残している。
 それと同時に、遠い地に連れて行かれそうな気配に動揺しはじめたスペイン兵に、気前よく帰宅を許している。
 ハンニバルは、行軍することで、兵を選抜していったのである。
 
 ピレネー山脈を越えてフランス側に入ったときの彼の軍勢は、歩兵5万、騎兵9千、それに37頭の象になっていた。



 アルプスに源を発し、リヨンを通ってマルセーユの近くの地中海に注ぎ込むローヌ河は、流れはさして早くはないが、夏期でも水量の豊かさは少しも衰えない。
 アルプスへは、この河を渡らないと行けない。
 ハンニバルの動きに気づいたローマが、軍を送ってくるであろうことは予測していた。
 ローマ軍と出会せずに、マルセーユやその近辺のギリシャ人にも気付かれないでローヌを渡河する地点を、ハンニバルは探った。
 渡河地点が決まった。
 マルセーユからは、ローヌ河を150キロも上流に遡った地点である。
 ローマ軍と出会う危険も少なかった。
 しかし、5万もの大群の渡河である。
 小隊ごとに、何十回にもわけての渡河である。
 軍の一部しか渡河が終わっていない時点で、ローヌ川河の東岸に住むガリア人の襲撃を受ける可能性があったし、実際、ガリア人はあからさまな敵意を示すことさえ起こった。
 そこでハンニバルは40キロ上流でローヌ河を渡った騎兵隊に、その一帯のガリア人の部落をすべて襲撃し、焼き払うようにと命令した。
 これにより、それまで対岸で敵意をあらわしていたガリア人たちは、潮の引くように姿を消した。
 部落を焼きうちされては、ローヌ河でハンニバルに敵意を示すどころではなくなったからである。

 このローヌ河の渡河の後にハンニバルの手元に残ったのは、歩兵騎兵あわせて4万6千であったという。
 ピレネーを越えた時点での軍勢が、5万9千であったから、ガリアに入ってからローヌ渡河で、1万3千を失ったことになる。
 だが、この損失とて、ハンニバルには計算済みであったろう。

 ローヌ河を越えたハンニバルとその軍が、どのルートを通ってアルプスを越えたかは、そのあとの2200年の歳月にもかかわらず、また多くの研究者の必死の探求にもかかわらず、今もってはっきりしたことはわかっていない。
 研究者たちの説を合計すると6通りの道筋にもなってしまう。
 古代でもすでに二説あった。
 ギリシャ人の歴史家ポリビウスとローマ人の歴史家リヴィウスの説である。
 自分自身も軍を率いてのアルプス越えの経験者であるナポレオンはリヴィウス説を良しとしている。
 さらにナポレオンは、アルプス越えを敢行したハンニバルが遭遇した真の困難は、象の群れを越えさせることであったろう、と言っている。
 ハンニバルがアルプスのどの地点を越えたかは不明だが、どのように越えたかは不明ではない。
 ハンニバルに同行していた、ギリシャ語教師のシレヌスが書いているからである。
 ポリビウスもリヴィウスもこれを参考にしている。

 それによれば、当時のローマ人が不可能と信じていたのが必ずしも誤りではなかったと思うほどに、象も加わった大軍のアルプス越えは難事業となった。

 季節は9月。
 山中では初雪がちらつく季節である。
 南国生まれの象にアルプス山中の気候が心地よいはずがない。
 象たちは暴れがちで、それをなだめる象使いも、雪のちらつく地方を通るなど初体験だ。
 そして道は、一歩踏み外せば谷底という、崖に沿った細い道しかなかった。
 象たちは動物の勘で危険な場所にくると動かなくなる。
 それを、歩兵たちまで動員されて、前に進ませようと押す。
 足元を誤った象や荷車が、人間たちを道連れに谷底へ消えていった。
 全軍を休ませるに足りる宿営地の設営など考えるだけで無駄だった。
 多くの夜は陣幕を張る場所さえも見つけられず、それらを身体に巻きつけて風と寒さを防いだ。
 暖をとることなど不可能であった。

 登りに入って9日目に、峠の上にたどり着いた。
 人も馬も象も、全員が疲労の極にあった。
 しかし、運のいいことに頂上近くには全軍をやすませるに足る平地が広がっていた。
 ハンニバルは、全軍に二日間の休息を与えている。

 しかし、下りは登りより難事になった。
 アルプス山中はでは季節は完全に冬に入っていた。
 凍りついた道を下るのは、象でなくても地獄だ。
 登りのとき以上の兵が、ある者は寒さと疲労に耐え切れず道端で動かなくなり、あるものは足を踏み外して谷底へ消えた。
 何頭もの象も、兵士と同じ運命をたどった。
 
 ハンニバルがアルプス越え要した日数は、登りと下りあわせて15日だったという。
 そして、その後にハンニバル自らが残す記録によれば、
 アルプスを越えてイタリアの地に降り立った時点での彼の軍勢は、2万の歩兵、6千の騎兵の計2万6千である。
 ローヌ河を渡った時点では歩兵騎兵あわせて4万6千であったから、このアルプス越えに払った犠牲は2万にも上ったことになる。
(注:つまり、軍勢の43%がアルプスの山中に消えたことになる。イタリアまでたどり着いたのは半分少々の57%である)
 ピレネー山脈を越えた時点で比較すれば、後に残してきた屍は3万3千になった。
 前人未到の偉業ではあったが、払った犠牲もすさまじい規模であった。
 アルプスを降りたところに広がる谷間の地で、ハンニバルは全軍に15日間の休息を与えた。



 75万もの動員力をもっていたイタリアに2万6千で攻め込んだハンニバルは、数字からみるかぎりは、無謀な冒険を強行した狂人にしかみえない。
 だが、内実はそれほど簡単ではない。
 ハンニバルの2万6千人は、ピレネー山脈を越え、フランス横断中に敵対してくるガリア人を撃退し続け、ローヌの渡河でも生き残り、アルプス越えにも耐えぬいてきた兵士たちである。
 精鋭という形容詞が最もふさわしい、粒ぞろいの戦士たちの集団である。
 それに、5カ月もの間、同じ釜の飯を食い、労苦を共にしてきたもの同士である。
 スペイン人、リビア人、ヌミデイア人と多人種の混合体であっても、連帯感は生まれる。
 これに加えて彼らは、若い天才的な才能の持ち主一人に率いられていた。

 また、ハンニバルには、イタリアのガリア人(ケルト人)を味方につけるという手があった。
 あらゆる面から検討しても、29歳のカルタゴの武将は、無謀な冒険を断行したのではなかった。
 戦闘の結果を左右する戦術とは、コロンブスの卵であると同時にコロンブスの卵ではない。
 誰も考えなかったやりかたによって問題を解決するという点ではコロンブスの卵だが、そのやりかとを踏襲すれば誰がやっても同じ結果を産むとは限らないという点で、コロンブスの卵ではないのである。
 それを活かすかどうかは、それを実際に駆使する人間の才能に左右される。
 アレクサンダーだから成功したのであって、誰がやっても成功するとはかぎらない。
 アレクサンダーの先例を参考にしながらもハンニバルは彼なりの独自性でそれを活かすことになる。

 優れた武将は、主戦力をいかに有効に使うかで、戦闘の結果が決まることを知っている。
 だが、その主戦力を有効に使うには、非主戦力の存在が不可欠であることも知っている。
 2万6千は、ハンニバルの主戦力であった。
 その彼が、イタリアのガリア人の懐柔に務めたのは、非主戦力が欲しかったからである。
 ハンニバルは、ガリア民族の特性を知っていた。
 彼はアルプス以南のガリア人を同盟国あつかいにしていない。
 同盟を結んでも、内実は傭兵と考えていた。
 彼は非主戦力が欲しかった。
 アルプス越えを成功させてから、1カ月もしないのに、ローマ憎しの想いのあったガリア人が少しづつ、しかし確実にハンニバルのもとに集まってきて、その数は1万人を越えていた。
 2万6千は、3万6千になったのである。
 しかも、当時のイタリア・ガリアはアフリカのヌミデイアと並んで、騎兵の産地であった。




 2300年も昔の人、アレクサンダー大王の業績を探ろうにも、現代に生きる私たちには、容易に手に入るものとすればプルタルコスの『列伝』しかない。
 この作品では、アレクサンダーの人間性には狭れても、彼が駆使した戦略戦術までは探れない。
 紀元前1世紀のギリシャの教養人であったプルタルコスが、そのようなことにはあまり関心がなく、またこの種のことを書くうえでの専門知識もなかったからである。

 だが、古代人でアレクサンダーについて書いたのは、プルタルコス一人ではない。
 多くの歴史家が、この若き天才の業績を書く作業に挑戦しているが、その当時ならば史料は不足しなかった。
 アレクサンダー自身が、二人の記録係を同行している。
 この二人の書いた記録をもとに、大王の死の直後に早や、二人の歴史家が伝記を書いている。
 今日では。アレクサンダーに同行した二人が書いた記録も、その死後に書かれたニ歴史家の著作も消失しまっている。
 大王の死のわずか百年後に生きたハンニバルに比べれば、情報の量だけ考えても、埋めようもない不利にあるのは明らかである。

 後に大王と尊称されることになるアレクサンドロス(アレクサンダー)は、22歳の歳に、3万6千の兵を従えただけで、広大なペルシャ帝国に攻め入った。
 この戦力で、10万から20万もの兵を動員してくるペルシャ王ダリウスと戦って、二度までも勝ったのである。
 ペルシャ側の戦死者は10万を数えたのに反し、アレクサンダーの損失は200から300。
 ゼロを1つか2つ書き落としたかと思うくらいだ。
 古人は大げさに記すクセがあったというが、完勝であったことでは疑いようがない。
 
 75万人の動員力をもつイタリアに、その1/10以下の戦力で攻め込もうとしていたハンニバルにとっては、アレクサンダーへの関心はより強かったとおもわれる。




● インターネット画像から




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★ ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記: 塩野七生

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● 1993/10/10[1993/08/07]



読者へ

 歴史への対し方には、ここの事象の研究に先年する傾向の強い学者をのぞけば、大別して二派に分類できるかと思う。

  第一はマキアヴェッリにその典型を見るタイプだ。
 アッピールしたいと思うことの例証として、歴史を使うやり方である、
 マキアヴェッリの代表作は『君主論』と『政略論』だが、『政略論』とは意訳で、原題は「テイトウス・リヴィウスの『ローマ史』にもとずく論考」という。
 あれを読めばマキアヴェッリは、リヴィウスにかぎらずポリピウスもプルタルコスも読んだうえでの論考であることはわかるが、自らの考えの立証例として、リヴィウスの『ローマ史』を中核とした歴史事象を使うやり方を、彼が選択したということでは変わらない。
 このように歴史を「使う」やり方を選択した人には、最近の例ならば『大国の興亡』の著者ポール・ケネデイがあげられるであろうし、名著『文明が衰亡するとき』の高坂正堯氏も、この線上に位置する人だと思う。

 歴史への対し方の第二派だが、ローマ史にかぎり、しかもこの分野での古典とみなされている作品の著者となれば、ローマの建国からはじまってユリウス・カエサルの死までを書いたドイツ人のモムゼンに、五賢帝の時代から筆を起して1453年の東ローマ帝国の滅亡までを網羅した、イギリス人のギボンがあげられるであろう。
 この二人に代表される歴史への対し方を一言で言うとすれば、「叙述」ではなかと思う。
 彼らにあっては、歴史の叙述は目的であって、手段ではない。

 私は、第一と第二の対し方の優劣を論じているのではない。
 ただ、「ちがう」、と言っているだけである。
 それで、第一と第二の対し方のちがいは何になってあらわれるかというと、端的には分量の差になってあらわれる。
 第一の対し方を選んだ人の著作は一、ニ巻で終わるのに対して、第二のやり方を選択した人の著作は、全十巻になるなど普通である。
 なぜにこうも分量で差が生ずるかというと、それは対し方の第二を選んだ作家たちは、
 「歴史はプロセスにある」、
と考えているからだと思う。
 結果を知るだけならば、受験生必携とか銘打った歴史要約書を一冊読めば解決する。
 日本の高校で使っている世界史の教科書でも、ローマ史関係の記述は十ページにも満たない。
 だが、いったん経過を追い始めるや、分量はこの数千倍を優に越えることになってしまう。
 多く書くことになってしまうのは、長々と書きたいからではない。
 プロセスを追っていくことではじめて、歴史の真実に迫ることも可能になる、と思っているからである。
 私も、この第二派に属す。

 とはいえ、同じ派の巨頭格のモムゼンに、必ずしも同調してはいないのだ。
 啓蒙主義の時代に生きたこのドイツ人は「歴史が裁く」を「歴史家が裁く」と考えていたようである。
 いまだ壮年期にあったのに、また彼の『ローマ史』は刊行当初から大成功を博したのに、カエサルの死まで書いて筆をおいてしまった。
 帝政ローマには、書き入ることもなしに、である。
 当時でも彼の読者は残念がっていたというが、モムゼン自身はその理由を書き残していない。
 だが、彼の『ローマ史』を読めば、それは自明のことである。

 啓蒙時代の子であるモムゼンは、叙述しながらも、批判しないではいられなかったのだろう。
 結果として、共和政時代のローマを好意的に裁いた彼には、帝政ローマは書けなくなってしまったのである。
 ところが私は、人間も、そしてその人間の所産であるシステムも、時代の求めに応じて変化する必要があることを訴え続けてきたマッキアヴェッリに賛成なのだ。
 この私もまた「裁く」としたら、それはただ非筒の理由による。
 「時代の要求に応えていたかどうか」
である。
 
 この連作の通し表題を、私は『ローマ人の物語』とした。
 だが、日本語の表題のラテン語訳には、歴史とか物語とかをダイレクトに意味する、ヒストリアもメモリアも使いたくなかった。
 所詮は同じ意味であるのだが、ジェスタエという言葉を使った。
 RES GESTAE POPULI ROMANI「レス・ジェスタエ・ロマーニ」とは、直訳すれば、
 「ローマ人の諸々の所行(ジェスト)」である。
 いかなる思想でも、いかなる倫理道徳でも裁くことなしに、
 無常であることを宿命づけられた人間の所行
を追っていきたいのだ。

 そして、
 歴史はプロセスにある
という考えに立てば、戦争くらい格好な素材はないのでらう。
 なぜなら、戦争くらい、当事国の民を\裸にして見せてくれるものもないからである。

 この第Ⅱ巻『ハンニバル戦記』では紀元前264年から前133年までの、130年間が対象になる。
 ローマ人にとっては、カルタゴとの間に闘われたポエニ戦役を中心に、ギリシャやシリアにまでおよぶ対外戦争の時代であった。
 第Ⅰ巻『ローマは一日にして成らず』でとりあげたギリシャが、この間では終末を迎えるだろう。
 第Ⅱ巻ではじめて本格的に登場してくるカルタゴもついには滅亡したのを、二千年後に生きる私たちは誰でも、結果としてならば知っている。

 知力で優れていたギリシャ人なのに、経済力に軍事力にハンニバルという稀代の名将までもっていたカルタゴ人なのに、なぜローマ人為敗れたのか。
 それを、プロセスの一つ一つ追っていくことで考えていただければ、著者である私にとってこれ以上の喜びはない。
 この第Ⅱ巻でとりあげる時代は第Ⅰ巻で述べたローマ人の築きあげたシステムが、その真価を問われる機会でもあったからである。
 それに。紀元前の3世紀¥から2世紀にかけての頃ともなると、史料もより豊富になる。
 同時代人の筆になる史料を使えるようになれば、登場人物たちの顔も見えやすくなる。
 ハンニバルやスキピオをはじめとするこの巻の登場人物たちと私たちの間に、2,200年の歳月が横たわっているとは思えないほどだ。
 そして、それを書く私が愉しんで書いているのだから、読むあなたも愉しんで読む権利は充分にある。
 高校時代の教科書ではないのだ。
 プロセスとしての歴史は、なによりまず楽しむものである。

 ちなみに、1年間で世界中の歴史を教えなくてはならないという制約があるのはわかるが、日本で使われている高校生用の教科書によれば、私はこの巻のすべて費やして書く内容は、次の5行でしかない
-----
 イタリア半島を統一した後、さらに海外進出を企てたローマは、地中海の制海権と商権を握っていたフェニキア人の植民市カルタゴと死活の闘争を演じた。これをポエニ戦役という。
 カルタゴを滅ぼして西地中海の派遣を握ったローマは、東方ではマケドニアやギリシャ諸都市を次々に征服し、さらにはシリア王国を破って小アジアを配下に収めた。
 こうして、地中海はローマの内海となった。
-----
 これが、高校生ならば知らないと落第する、結果としての歴史である。
 これ以外の諸々は、プロセスであるがゆえに愉しみともなり、考える材料も与えてくれる、
 オトナのための歴史である。

                                1993年春 ローマにて  塩野七生 





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2012年11月17日土曜日

:なぜ中国でなくてヨーロッパが主導権を握ったのか


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● 2012/03/16[2000/**]



 西暦1000年から1450年においても、科学や技術はおもに、インドから北アフリカ大陸に広がるイスラム社会からヨーロッパの社会に向かって流れていのであり、その逆ではなかった。
 この時代において世界をリードしていたのは、肥沃三日月地帯と同じぐらい早い時期に食料生産を開始していた中国だった。
 肥沃三日月地帯や中国は、後発組のヨーロッパの数千年先を行っていた。
 それなのに、なぜ、彼らはその圧倒的リードを徐々に失っていったのだろうか。

 肥沃三日月地帯が圧倒的なリードを失ってしまった理由については答えがはっきりしている。
 この地域の人びとがはじめの一歩を早く踏み出せたのは、適性のある野生種に恵まれていたからである。
 しかし、彼らが地理的に有利だったのは、その点においてだけであった。
 紀元前4世紀の終わりに、アレキサンダー大王がギリシャからインド東部までの全域を征服すると、権力の中枢は西へ移り、肥沃三日月地帯から永久に離れてしまう。
 そして、紀元前2世紀のローマによるギリシャの征服によって、権力の中枢はさらに西へ移動する。
 ローマ帝国の滅亡に伴い、今度はヨーロッパ西部および北部へと移動していった。
 
 こうした変化をもたらした要因は、肥沃三日月地帯の現状と古代の記述を比べてみれば一目瞭然である。
 現在、「肥沃三日月地帯」を「世界をリードする食料生産地」とみなすことは、あまりにもばかげている。
 かっての肥沃な土地の大部分は農業に不向きな砂漠か、それに近い乾燥地や草原地帯(ステップ)になり、土壌の風化や塩害が進んだ土地になってしまっている。
 現在、この地域の人びとは、使いきってしまえば再生できない石油という資源に頼りきっている。

 中国は、肥沃三日月地帯と同じくらい古い時代に食料生産をはじめていた。
 北部から南部に、そして沿岸地帯からチベット高原にまで広がる中国は、地形や環境の変化に富み、多様な作物や家畜や技術が誕生している。
 世界最多の人口を誇り、生産性に富む広大な土地を所有している。
 肥沃三日月地帯ほど乾燥していない。
 生態系も肥沃三日月地帯ほど是4位弱ではない。
 西ヨーロッパより環境問題が深刻化しているとはいえ、食料生産の開始から1万年を経た現在でも、生産性の高い集約農業が行われている。
 これらを考慮すると、中国がヨーロッパに遅れをとってしまったことは意外である。

 中国は、初めのの一歩を早く踏み出している。
 そしてさまざまな有利な点を備えていた。
 それゆえに、中世の中国は技術の分野で世界をリードしていた。
 鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術といったさまざまなものがある。
 政治制度の発達においても世界をリードしていた。
 航海術や海洋技術にも優れていた。
 15世紀初頭には大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた(訳注:鄭和の南海遠征)。
 数百隻で編成されたこの船団には船体が400フィートに達する舟も含まれていた。
 乗組員は2万8千人にも達した。
 たった3隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカ東岸に到達する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。

 ではなぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西に回ってヨーロッパへいかなかったのか。
 なぜ中国人はヨーロッパを植民地化しなかったのか。
 なぜ中国人は、太平洋を渡って、アメリカ西海岸を植民地化しなかったのか。
 言い換えれば、なぜ中国は、自分たちよりも遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまったのだろうか。

 これらを解く鍵は、船団の中止にある。  この船団は、西暦1405年可ら1433年にかけて7回にわたって派遣された。
 その後は中国宮廷内の権力闘争の影響をうけて中止された。
 これは宦官派とその敵対派の構想であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものである。
  船団派遣政策を推進していたのは宦官派だったが、敵対派が権力を握ると船団派遣はとりやめになった。
 やがて造船所は解体され、外洋航海も禁止された。
 国内の政治状況に対応するため、既存の進んだ技術を後退させていったことは多くの国々にみうけられる。
 だが、中国は国全体が統一されていたという点で、それらの国々とは異なっていた。
 政治的に統一されていたために、ただ一つの決定によって、中国全土で船団派遣の中止が中止されたのである。
 ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。
 造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだ。



 中国とは対照的だったのが、大航海時代がはじまった頃のヨーロッパだった。
 当時のヨーロッパは政治的に統一されていなかった。
 イタリアうまれのクリストファ・コロンブスは3人の君主に断られ、4番めに仕えた君主によって、願いがかなえられたのである。
 もしヨーロッパが一人の君主によって統一支配されていたら、ヨーロッパ人によるアメリカの植民地化はなかったかもしれない。
 正確に言うならば、ヨーロッパに何百人もいた王侯の一人をコロンブスが5回目にして説得できたのは、
 ヨーロッパが政治的に統一されていなかったおかげ
なのである。

  ヨーロッパと中国は際立った対象を見せている。
  中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。
  たとえば、水力紡績機の開発を禁じて、14世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。
  世界の先端をいっていた時計技術を事実上葬りさっている。
 中国は15世紀末以降、あらゆる機械や技術から手を引いてしまっているのだ。
 政治的な統一の悪しき影響は、現代中国にもあらわれている。
 1960年代から70年代にかけての文化大革命においても噴出している。
 ほんのひとにぎりの指導者の決定によって国中の学校が、5年間も閉鎖されたのである。

 中国の統一も、ヨーロッパの不当いつも、昔から綿々と続くものである。
 中国では、人びとが文字を使いはじめて以来、ただ一種類の文字を使い続けてきた。
 文化的にも、過去2千年間、ほとんど一つにまとまっていた。
 これに対して、ヨーロッパが政治的統一に近づいたことは一度としてない。
 14世紀後半では1000の小国がひしめいていた、
 1500年には500となって、1980年には25に減じた。
 しかし、私がこの文章を書いている時点では、また少し増えて40になっている。
 ヨーロッパには、それぞれ独自のアルファベットを使う45の言語がひしめいている。
 文化的違いはもっと大きい。
 今日(1997年時点)では、ヨーロッパ経済共同体によってヨーロッパを統一しようという温厚な計画でさえ、意見の一致が見られず挫折している。
 それは統一を嫌う伝統がヨーロッパに深く根付いているからである。

 つまり、政治や技術の分野において、中国が自分たちより遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまった理由を理解しようとすることは、すなわち、
 中国の長期にわたる統一とヨーロッパの長期にわたる不統一という理由
を理解することになるのである。

 中国では紀元前221年に統一国家が形成されてからは、分裂が長きにわたって続くようなことはなかった。
 分裂状態は何度かあったが、そのたびに再統一という形で終止符が打たれてきた。
 これに対してユーロッパでは、絶頂期にローマ帝国でさえ、ヨーロッパの全土の半分を支配したことはなかった。
 
 自然の障壁がさほどなく、地域の地理的結びつきが強かったことは中国の統一に有利に働いている。
 自然環境の障壁が少ない場所では、技術は伝搬しやすい。
 しかし、中国では、地域の地理的結びつきが強かったということがかえって逆に作用する。
 すなわち、一人の支配者の決定が全国の技術革新の流れを、再三再四にわたって止めてしまうようなことが起こっている。
 これとは逆に、分裂状態にあったヨーロッパでは、自然の障壁が政治的統一をさまたげはしたが、それは技術やアイデアの伝播を妨げるほどに大きな障壁にはならなかったということである。
 このように比較していくと、技術の発達は、地理的結びつきから、プラスの影響と、マイナスの影響を受けることがわかる。
 過去1000年の技術の発達でいえば、中国は地理的結びつきのもっとも強かった例であり、ヨーロッパは中程度だった例である。
 そしてインド亜大陸はもっとも弱かった例になる。



 肥沃三日月地帯と中国の歴史は、現代のわれわれに有益な教訓を示している。
 それは、環境は変化するものであって、輝かしい過去は輝かしい未来を保証するものではない、ということである。
 インターネットで瞬時に情報がやりとりでき、飛行機が一晩で物質を大陸から大陸に運んでしまう現代にあって、地理的要因に基づく本書の説明がどれだけ有効なものかという疑問が当然湧いてくる。
 世界の人びとは、いまやまったく新しい原理に基づいて競争しているように思えるかもしれない。
 台湾、韓国、マレーシア、そしてとりわけ日本の台頭はまさにその結果であると思えるかもしれない。
 しかし、この新しい原理も、よくよく考えてみると、これまでの原理の別形態にすぎないことがわかる。
 現代という時代にあっても、新しく台頭して力を掌握できる国々は、数千年の昔に食料生産圏に属しえた国々である。
 あるいは、そういうところに住んでいた人びとを祖先にもつ移民が作った国々である。



 取るに足りない特異な理由で一時的に誕生した特徴が、その地域に恒久的に定着してしまい、その結果、その地域の人々をがもっと大きな文化的特徴を持つようになってしまうことも起こりうる。
 これが可能なことは、他の科学の分野では、最初の状態の小さな差異が時間とともに大きく変化し、予測不能な振る舞いをすると唱える「カオス理論」が示している。
 こうした文化的過程は、いわば歴史自身が手にしているワイルドカードである。
 そして、歴史の予測不能な側面は、このワイルドカードのなせる技でもある。
 一時的に誕生した特徴が、地域に恒久的に定着してしまった例として、タイプライターのQWERTY配列キーボードがある。
 このキーボードは、何種類かあったうちの一つだったにすぎない。
 環境とは無関係な文化的特異性が当初もっていなかった影響力を徐々に獲得し、長時間持続するものに発展しうることを示していう。

 個人の特質もまた、文化的特異性とおなじように、歴史のワイルドカードである。
 歴史はこのワイルドカードがあるため、環境的要因やほかの一般的要因では説明できない部分を秘めているのである。






「世界には、なぜこんなにも格差があるのか」
ピュリツァー賞受賞作がついに映像化
http://nationalgeographic.jp/nng/movie/gunsgermssteel/index.shtml

人類が誕生してからの歴史をたどる時、ある大きな謎にぶち当たる。
世界はなぜ均一ではないのか。地域間の格差がある理由は何か。
アフリカ、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ、オセアニア・・・・。

人類は世界各地で多様な社会を築いてきた。
21世紀の現在、高度な工業社会に暮らす人々もいれば、伝統的な農耕牧畜生活を続ける人々、さらには数千年前から変わらず狩猟採集を暮らしの基盤とする人々もいる。
そして、ある文明に属する人々は征服者となり、その一方で、ある文明に属する人々は征服されてきた。

米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授、ジャレド・ダイアモンドはその謎の答えを求め続けてきた。
専門とする地理学者の立場だけでなく、分子生物学、進化生物学、考古学、文化人類学など、幅広い分野の最新の研究をもとに、世界各地を旅し、一冊の著作にまとめた。1997年に発表された『銃・病原菌・鉄』(原題:Guns, Germs, and Steel)は米国だけでなく、世界各国で衝撃とともに迎えられ、ベストセラーとなり、さらに、1998年度ピュリツァー賞(一般ノンフィクション部門)を受賞している。

DVD BOX『銃・病原菌・鉄』は、人類史の謎に対するダイアモンドの説をもとに構成されている。
ナビゲーターとしてダイアモンド自身が登場、世界各地を訪ねながら、解説をする。

【ジャレド・ダイアモンド氏 特別インタビュー】
「銃・病原菌・鉄」の今






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:小規模血縁集団、部族社会、首長社会、国家


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● 2012/03/16[2000/**]



 現在では、自給自足の生活を送っている小規模血縁集団は、ニューギニアやアマゾン川の奥地にしかいない。
 この社会は通常、5人から80人で後世され、メンバーのほぼ全員が血縁関係にあるか、婚姻を通じての親戚関係にある。
 つまり、小規模血縁集団は、1つの大家族か、親戚関係にある家族がいくつか集まって暮らしているグループである。
 アフリカのピグミー、南アフリカのブッシュマン、オーストラリアのアボリジニ、エスキーモー(イヌイット)などのように、ごく最近になって、政府の支配を受け容れたり、同化してしまったり、絶滅してしまった例は多い。
 小規模血縁集団は、人類が進化の過程を通じて、数百万年間継承し続けたただ一つの政治的、経済的、そして社会的組織である。
 これ以外のタイプの集団は、過去数万年のあいだに登場し、発達したものである。

 小規模血縁集団(バンド)につぐ段階は部族社会(トライブ)である。
 この社会は、通常、数百人規模で定住生活をしていることが多く、また、家畜の世話をしながら季節的に野営地を移動する種族や部族も存在する。
 部族社会は、誰もが皆の名前と、自分とどういう関係にある人間かを記憶していられる程度の人口である。
 人間集団においては、互いに顔見知りで、相手の素性を知っていられる人数は「数百」が限度とおもわれる。
 人間が数百人以上の部族社会は、首長社会に変化する傾向がある。
 その原因の一つは、集団が大きくなるにつれて、知らない人間同士の紛争解決がしだいに難しくなってくるからである。
 小規模血縁集団と同様、部族社会には官僚システムがない。
 警察システムも税金もない。
 部族社会は物々交換の経済である。

 小規模血縁集団や部族社会は、国家の支配の及ばない辺鄙な地にいまでも存在している。
 しかし、首長社会(チーフダム)は、国家がもっとも欲しがる土地を占有していたところが多かったため、20世紀初頭までに、すべて絶滅してしまった。
 数千人から数万人が暮らす首長社会は、人口規模において部族社会よりかなり大きい。
 およそ7500年前に首長社会が出現した時、人類は他人と日常的に向きあうなかで、もめごとやいざこざを問題化させずに解決する方法を見つけなければならなかった’。
 権力を行使できる人間を首長(チーフ)だけに限定することは、もめごとやいざこざを問題化させずに解決するには有効である。  



 知っての通り、西暦1492年当時、世界に存在していた社会の大半は、首長社会や部族社会、小規模血縁集団であって国家(ステート)ではなかった。
 国家の成立は、やはり説明を必要とする問題なのである。
 国家の成立の説明としてもっともよく知られる理論は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの提唱した社会契約説である。
 ルソーのいうところの「社会契約」とは、単純な社会よりも国家のほうが幸福になれるとして人びとが下す理性的な判断を意味している。
 したがって、ルソーぼ社会契約説によれば、人びとが理性的判断にもとずき、人民の総意として単純な社会を自ら放棄するとき、国家が形成される。
 しかしながら、歴史上の記録を見る限り、冷静に先見の明を働かして国家が形成された事例は「一つとしてない」
 小規模な人間集団に属する人びとが、自分たちより大規模な集団に併合されようと自発的にみずからの主権を放棄することはないのだ。
 主権の放棄は、征服または外圧によってのみ起こっている。

 社会の併合は、ルソーの提唱するところの社会契約を通じて自動的に起こるものではない。
 それは、
 争いの解決システムや、
 意思決定しシステムや、
 再配分経済システムや、
 体制的宗教システムが
社会契約を通じて自動的に誕生しないのと同じである。
 だとすれば、社会の併合は、何が原因で起こるのであろうか。



 国家とは一般に5万人以上の集団である。
 国家を形成するまでに至った集団は、食料生産によって市民を支えることのできた集団だけである。 人間社会は、食料の生産をはじめたことによって、少なくとも3つの特徴を追加することができた。
①.まず農閑期に開放される農民の労働力が使えるようになったこと。
 それは、ピラミッドのような公共建造物の建設、あるはまた、国土を拡大するための征服戦争が行えるようになった。
②.二番目の特徴としては、食料の生産によって余剰食料が生まれ、その結果、社会階層の形成が可能にとなり、首長階級、官僚階級、エリート階級などが生まれた。
③.三番目に、食料生産は、人びとに定住生活を可能にさせた。
 あるいは、定住生活を要求した。

 食料生産は、人口の増加を可能にし、複雑な社会形成を可能にする。
 小規模血縁集団や部族社会といった集団が、数十万規模の人口の受け皿としては生き残れないこと、既存の大規模社会が複雑に集権化されていること、これらを同説明すればいいのだろうか。
 明確の理由を4つあげることができる。
①.理由の一つは、集団が大きくなるにつれて、他人同士の紛争が天文学的に増大すること。
②.理由の2つめは、人口が増加するにつれ、社会的な意思決定が難しくなること。
③.3つめは、経済的な理由によっても複雑化し集権化すること。
 つまり、集団が経済的に機能するためには、再分配経済システムが発達し、個人の余剰物が権力の手によって、それを必要とする人びとへと再配分される必要があること。
④.大規模な集団の社会性が複雑にならざるをえない理由の4つめの理由は、大人数が暮らす食料生産者の世界は、人口密度が高いことによって、必然的に外部世界との関係を増大させること。
 地域の人口密度が高ければ高いほど、集団あたりの生活面積が減少する。
 そのため、人びとはより多くの生活必需品を、外部から入手せねばならなくなってくる。
 この外部との関係の拡大が複雑な社会性を持たざるをえなくなる方向へおしやっていく。




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:発明と技術:「発明は必要の母」


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● 2012/03/16[2000/**]



 人の脳の作りに人種間の差異がないとしたら、技術の発展が大陸ごとに異なっていることはどう考えればよいのか。
 一つの答えは、非凡な天才が技術を進歩させるという考えである。
 人類の技術の進歩は、そうした個人のによって突然もたらされたようにも見える。 
 グーテンベルグ、ジェイムズ・ワット、エジソン、ライト兄弟など。
 人類の科学技術史は類まれな天才たちが誕生した場所の偶然性によって左右されるものにすぎないのだろうか。

 あるいは、大陸間の技術発展の違いを、発明の受容しやすい社会と、しにくい社会の違いで説明しようとする人びともいる。
 この考え方では、個人の発明の才ではなく、社会全体の受容性が問題となる。
 第三世界には絶望的なほどに進歩に対して保守的な社会がある、と考える人びとが多い。



 まず、発明はどのようになされるかについて考えてみよう。
 これに対する一般的な答えは、「必要は発明の母」という格言で表現される。
 何らかの必要があるときに発明が生まれる、という考え方である。
 「必要は発明の母」で説明できる事例は多い。

 <<事例略>>

 これらの事例はよ広く知られている。
 そしてわれわれは、著名な例に惑わされて、「必要は発明の母」という錯覚に陥っている。
 実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何かを作り出そうとして生み出されたものではない。
 発明をどのように応用するかは、発明がなされたあとに考え出されている。
 一般大衆が発明の必要性を実感できるのは、それがかなり長い間使い込まれてからのことである。 
 数ある発明の中には、当初の目的とはまったく別の用途で使用されるようになったものもある。
 飛行機や自動車をはじめとする、近代の主要な発明の多くはこの手の発明である。
 内燃機関、電球、蓄音機、トランジスタ。
 おどろくべきことに、こうしたものは、発明された当時、これをどういう目的で使ったらいいのかよくわからなかった。
 つまり、多くの場合、「必要は発明の母」ではなく、
 「発明は必要の母」
なのである。
 どんな発明でも最初のひな形は、何かの役に立つほどの性能を示せないことが多い。
 そのため、大衆の需要も乏しく、長期にわたって発明家だけのものであり続けることが多い。
 カメラにしてもタイプライターにしても、テレビにしてもである。



 発明がどのようになされるかについての一般的な見方では、発明とひつようの関係が逆転している。
 また、ワットやエジソンのような、非凡な天才の役割が誇張されすぎている。
 出願者に特許の証明を要求する特許法も、発明は非凡な天才によってなされるという見方を助長している。
 特許法は、先駆者の成功を軽視したりすることで、発明家が経済的利益を得られる下地を与えている。

 あの時、あの場所で、あの人が生まれていなかったら、人類史が大きく代っていた、というような天才発明家は、これまで存在したことはない。
 功績が認められている有名な発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け入れられるようになったときに、既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである。

 われわれの考察の結論は、次の2つである。
①.技術は、非凡な天才がいたおかげで突如出現するものではない。
 累積的に進歩し完成するものである。
②.技術は、必要に応じて発明されるものではない。
 発明されたあとに、その用途が見出されることが多い。
 
 この2つの結論が、記録に残っていない古代の技術に、もっともよく当てはまることは確かである。

 中世以降の石油の精製については、19世紀の化学者たちが、中間分留物が灯油として役立つことを発見した。
 しかし、もっとも揮発性の高い分溜物(ガソリン)は、使い道がないものとして捨てられていた。
 ガソリンが使われるようになったのは、内燃機関の燃料として理想的だと分かってからのことである。
 現代文明の燃料であるガソリンもやはり、最初は使い道のない発明として登場しているのである。



 新しい素晴らしい技術が発明されたとしても、社会がその技術を受け入れるという保証はない。
 社会がまったく相手にしなかった技術はたくさんあるし、長い抵抗のすえにやっと取り入れられた技術も山ほどある。
 社会はどんな要因によって新しい発明を受け入れるのだろうか。
 異なる発明がどのように受容されたかを調べてみると、そこには少なくとも4つの要因が作用していたことがわかる。

①.もっともわかりやすい要因は、既存の技術と比べての経済性である。

②.2つ目の要因は、経済性より社会的ステータスが重要視され、それが受容性に影響することである。
 日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字ではなく、書くのが大変な漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。

③.3つ目の要因は既存のものとの互換性である。
 キー配列を効率化したタイプライターがいまだ受け入れられないのはこのせいである。 
 1873年に開発されたQWERTY配列タイプライターは非工学設計の結晶である。
 このキーボードはさまざまな細工をほどこし、タイプのスピードをあげられないようにしてある。
 なぜこうした非生産的な工夫がほどこされたかというと、当時のタイプライターは、隣接するキーをつづけざまに打つと、キーがからまってしまったからである。
 そこでタイピストの指の動きを遅くするためにこのキー配列が工夫された
 それがQWERTY配列である。
 しかし、1993年に、キーの技術的な問題が解決さ、効率のいい配列のキーボードが開発され、試用者によっては速度は2倍に、使いやすさも95%向上することが示された。
 だが、旧キー配列のキーボードは社会的にすでに定着しており、効率のいいキー配列を普及させる運動はことごとく、失敗に終わっているのである。

④.新しい技術の受け入れに影響を与える4つ目の要因は、それを受け入れるメリットの見分けがつきやすいか否かである。



 人類史上には強力な技術を自ら放棄し、その理由がよくわからない社会が存在する。
 われわれは、いったん取得された有用な技術は、それに変わるよりよい技術が登場するまで継続的に使われると考えがちである。
 しかし、現実的な観点からすると、技術は、社会に取得されるだけでなく、維持されなくてはならない。
 そして、技術が社会的に維持されていくかどうかもまた、予測不可能な要因によって左右されることが多い。
 どんな社会にあっても、一時的にな社会運動や社会現象の影響で、経済的に無益なものの価値が上がることがあるし、有益なものの価値が下がることがある。
 もちろん最近では、世界のほとんどの社会が互いに結びついているので、重要な技術が破棄されてしまう現象が実際に起こるとは想像しにくい。
 しかし、他の社会と結びついていない社会では、たとえば江戸時代の日本のように、重要な技術が放棄されてしまう現象が実際起こり、その状態が継続することはある。

 江戸時代の日本で、銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。
 日本人は、1543年に中国の貨物船に乗っていたニ人のポルトガル人冒険家から火縄銃が伝えられて以来、この新しい武器の威力に感銘し、自ら銃の製造をはじめている。
 そして、技術を大幅に向上させ、1600年には、世界でもっとも高性能な銃をどの国より多く持つまでになった。
 ところが、日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。
 日本の武士、サムライにとって刀は自分たちの象徴であるとともに芸術品であった。
 また銃は、1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様、異国で発明されたということで、所持や使用が軽蔑されるようになった。
 やがて幕府が銃の生産を減らすようになると、実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまった。
 日本が新しい強力な軍事技術を拒絶しつづけられたのは、人口が多く、孤立した島国だったからである。
 しかし、日本の平穏な鎖国も、たくさんの大砲で武装したペリー艦隊の訪問によって1853年に終わりを告げ、日本人は銃製造再開の必要性を悟ることになる。

 この、日本で銃火器が排除された例や、中国で外洋船が使われなくなった例は、孤立した社会や孤立に近い状態の社会において、既存の進んだ技術が後退した事例として広く知られている。



 人類の科学技術史は、自己触媒のプロセスの格好の例である。
 自己触媒の過程においては、ある過程の結果そのものが、その過程の促進をさらに早めるという正のフィードバックとして作用する。
 つまり、新しい技術は、次なる技術を誕生させる。
 ゆえに、発明の伝播は、その発明自体よりも潜在的に重要になる。

 科学技術は、それまでの技術への精通を前提として前進する。
 科学技術はの進展過程が自己触媒的である理由の一つはここにある。
 科学技術の進展過程が自己触媒的であるというもう一つの理由は、新しい技術や材料が登場することによって、新旧のものの組み合わせで別の新しい技術が可能になるということである。




[ ふみどころ:2012 ]



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:文字と言語

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● 2012/03/16[2000/**]



 世界には、文字を発達させた民族と、発達させなかった民族とがいる。
 これほど価値のある文字を、すべての民族が持たなかったのはなぜだろうか。
 文字は、人類の歴史上、何度発明されたのだろうか。
 どういう状況で、どういういう用途のために発明されたのであろうか。
 今日、日本とスカンジナビア諸国では、国民のほぼ100%が文字の読み書きができるが、イラクの国民はそうではない。
 イラクでは約4千年前に文字がたんじょうしているというのに。
 それはなぜだろう。
 
 エジプト、中国、そしてイースター島の例を除いて、歴史上、文字は、シュメール文字化かマヤ文字から派生的に改良されたか、
これらの文字の使用に刺激され考案されたものと思われる。

 文字が使用されるようになるには、その社会にとって文字が有用でなければならない。
 文字の読み書きを専門にする人びとを食べさせていけるだけの生産性のある社会でなければならない。

 文字システムは「実体の模倣」か、「アイデイアの模倣」のいずれかによって一つの社会から別の社会へと広がっていった。
 誰かが何かを発明したとき、それがうまくはたらいていることを知っている人が、わざわざ自分で似たようなものを独自に作りだそうとするだろうか。
 技術や概念といったものは、「実体の模倣」か「アイデイアの模倣」で伝播するのが普通である。

 世界には現代でも、文字のない言語が存在する。
 言語学者は、そうした言語のために「実体の模倣」によって文字システムを作成している。
 具体的には、既存の文字システムのアルファベットを少し修正補足して、目的の言語を取り扱えるようにすることが多い。

 新しい発明や技術は「実体の模倣」によって伝播されることが多い。
 「アイデイアの模倣」とは、他人の成功をヒントに、自分なりに工夫を凝らして一つの成果を創り出す方法である。
 「アイデイアの模倣」によって考案された文字の典型的な例が、1820年ころにアーカンソー州で、セコイヤという名前のチャロキーインデイアンが作った音節文字である。
 セコイアは、白人が紙に記号を書いて記録をとっているのを目にした。
 セコイアは多くのインデイアンがそうであるように読み書きができず。英語をまった知らなかった。
 だから彼にとって、白人たちが記号で何をしているかはずっと謎のままだった。
 それでも、鍛冶屋のセコイアは、ちょっとした絵や図柄を使って、自分の客のツケを書いておく方法を考えだした。
 やがて絵や図柄を大きさの違う丸や線に発展させて、帳簿をつけるまでになった。
 1810年頃、セコイアはチェロキー語の表記法を開発することにした。
 <<略>>

 最終的にセコイヤは、チェロキー語には有限個の音の要素があって、どの単語もそれらの要素の組み合わせで構成されていることに気づいた。
 そして彼は、われわれが音節と呼ぶ要素に着目し、まず、200個の記号を作ってみた。
 やがて彼は、それらの多くを「子音+母音」の組み合わせを表す85個の音節記号にまとめた。
 視覚的な記号の形についてセコイアは、小学校の教師からもらった英語の教本のアルファベットに着目し、そこから約20ほどの文字を借用した。
 しかし、彼は英語をまったく知らなかったので、記号と発音との対応はちぐはぐなものとなった。
 たとえば、彼は英語の「D」「R」「b」「h」を使って、チェロキー語の「a」「e」「si」「ni」の音節を表している。

 セコイアの音節文字は、すぐにチェロキー族の間に広まり、100%の人びとが読み書きできるようになった。
 また、チェロキー族は、自分たちの文字で本屋新聞を印刷することをはじめている。
 セコイアの音節文字は、チェロキー語の発音にうまく対応していること、習うことが簡単だったことから、言語学者の評価も高い。
 セコイアの音節文字は、「アイデイアの模倣」によっても文字が誕生することを見事に示している。



 歴史上、文字を早い時期に手に入れた社会は、文字の曖昧性を減少させる試みを何一つしていない。
 その使い道や使用者層が限定されていたことについても何もしていない。
 それはなぜなのだろうか。
 この疑問こそ、文字の読み書きに対する古代人と現代人の考え方の違いを示すものである。
 
 彼らは、大衆が文字を使って詩や物語を書くとは考えてもいなかった。
 古代文字は、人類学者クロード・レヴィ=ストロースが指摘しているように、
 「他の人間を隷属化させるために」
おもに使われていた。
 文字の読み書きが専門でない、いわゆる一般の人びとが文字を使い始めたのは、後世になって、文字が単純化されるとともに表現力が豊かになってからのことである。

 人類はこれまでいろいろなものを登場させてきたが、文字はその最後の段階になって登場した。
 それはなぜだろう。
 この疑問に対する答えは、初期の文字の使い道や使用者層がきわめて限定されていたという事実の中に隠されている。
 文字を早いうちに取り入れた社会も、複雑で集権化された社会であり、階層的な分化の進んだ世界であった。
 納税の記録をしたり、国王の布告を表した初期の文字は、そうした社会体系のもとで必要とされたものなのである。

 文字が誕生するには、数千年にわたる食料生産の歴史が必要だった。
 食料生産は、文字の誕生や借用の必要条件である。
 十分条件ではないのである。




[ ふみどころ:2012 ]



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