2012年9月28日金曜日

:ひとまずの結び(後半)

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● 1996/07/25[1992/07/07]





 なぜ二千年も昔に生きた人間のローマ観のほうが、私にはしっくりくるのか。
 この問題は、私をずいぶんと長い間考えこませた。
 それでもこの頃では、次の4点に要約されるのではないかと思いはじめている。

①.第一は、ローマの興隆の因を精神的なものにもとめなかった、三人の態度である。
  私自身も以前から、興隆や衰退の原因を感性的なことに求める態度をとっていない。
 つまり、興隆は当事者たちの精神が健全であったからであり、衰退はそれが堕落したからだとすつる論法に納得できないのだ。
 それよりも私は、興隆の因は当事者たちが作り上げたシステムにあると考える。
 なぜなら、人間の気分ほど同様しやすいものはなく、気分を一新してくださいなどと説いても、なかなか全員で一新できるものではない。
  一新するには、一新」せざるをえないようにする、つまりシステム化してしまうしかない、と思うからである。

②.第二は、彼ら三人はキリスト教の普及以前に生きたのだから当たり前にしても、私もまらキリスト教信者ではないということである。
 キリスト者でなければ、キリスト教の倫理や価値観から自由でいられる。
 例えば、イエスは、信じる者こそ幸いなれ、 と言った。
 私も、信ずることで心の安定を得ることは大事なこととは思うが、「なぜ」、問いかける姿勢は捨てることができない。
 「貧しきものこそ幸いなれ」、というイエスの教えの優しさは分かるが、
 「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」
としたペリクレスのほうに同感なのだ。
 また、
 キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通してみたのでは書けない、
とも思っている。

 中世時代の考えを色濃く遺しているダンテだが『神曲』の中で、その言行に罪があるとして地獄に落としたのは、悪しきキリスト教徒だけである。
 「キリスト教以前に生を受けたゆえに真の信仰を知らないで死んだ」と評されても、異教徒たちは、ホメロスでもソクラテスでもアリストテレスでも、ローマ共和政の創始者プルータスでもカエサルでも、みな地獄の外側の陽光の下に場所を与えられている。
 ダンテでさえ、古代人とキリスト教徒を同列には論じなかった。

③.第三は、これはまた知らないで死んでしまった彼らには当然の話にしても、フランス革命によって打ち上げられた「自由・平等・博愛」の理念に、この人々は少しも縛られていないという点である。
 理念に邪魔されないですむから、現実を直視することも容易になる。
 「こうあらねばならない 」という想いが強くなればなるほど、それとは理念的に相容れない体制に良い面があっても、理念的に相容れない体制があるというだけで、そのよい面にさえはじめから視線が向かないのだ。

 それなのにハリカルナッソスのデイオニッソスにいたっては、ペリクレスとアウグストウスを同列に視して賞賛している。
 英明な指導者に治められたときの国家は、いかに幸福に運営されるかとの例としてでである。
 だが、、今、この二人を同列視して論じた学生がいたとしたら、歴史の教師は迷うことなく落第点をつけるでだろう。
 ペリクレスはアテメの民主政の旗手であり、アウグストウスは帝政ローマの創始者なのだから、革新と保守を同列に考えるなどもってのほか、というわけである。
 しかし、自由と平等という高尚であることは疑いのない理念を、ひとまずにして脇に置いて考えてみるとしたらどうだろう。
 アテネの民主政が機能したのはペリクレスの指導がよかったからであり、ローマの帝政が「パクス・ロマーナ」を築きあげたのはアウグストウスの力によったのである。
 万民の幸福に寄与したということならば、民主政も帝政もなくなって善政だけが残る。
 古代人も、このように考えたのではないかと思う。
 ちなみに、古代のペリクレス評価は優れたリーダーとしてのそれであって、民主主義のチャンピオン視されるようになったのは、フランス革命を経て後の話である。

 私自身についていえば、フランス革命を経た現代に生きているとはいえ、自由・平等・博愛を高らかに唱えれば唱えるほど、自由・平等・博愛の実現から遠ざかるのはなぜか、という疑問を抱き続けてきた。
 歴史は、この理念を高らかに唱え追及し熱心であった民族では実現せず、一見反対の行き方を選んだ民族では、完全ではないにしても実現できた事実を示している。
 私などはこの頃、20世紀末のこの混迷は
 「フランス革命理念の自家中毒」
 の状態ではないか、とさえ思うようになっている。
 

④.第四にあげるのは、二千年の昔ギリシャ人三人の考えに私がなぜしっくり感じたかの理由は、「問題意識の切実さ」にあったのではないかと思う。

 彼ら三人とも、それぞれ立場は違っても、あれほども高度な文化を築いたギリシャが衰退し、なぜローマは興隆を続けるのか、と問いかけた点では一致していた。
 彼ら自身が衰退したギリシャ民族に属していたから、この問題は切実な意味をもっていたのである。
 まるで、つい先ごろまで躍進に次ぐ躍進をつづけていた日本に対し、欧米人が、なぜ日本が、と問けかけた現象と似ている。
 ローマ人リヴィウスの著作態度には、当然ながら、この種の切実さは欠けている。
 彼の著作に欠けているこの種の切実さは、日本人の書く日本人論を思い浮かべるだけで十分と思う。
 ならば、三人のギリシャ人がいだいていたと同じたぐいの切実さを、私も持っているのかと問われれば、答えはやはり否である。
 ただ、なぜローマが、という問いかけへの執着ならば共通している。

 私は常々、軍事力だけで一千年間も、あれほど多くの民族を押さえつづけていかれるはずはない、と考えてきた。
 そして、この疑問に対して、それを解くヒントをはじめて与えてくれたのが、現代の歴史学ではなく、二千年も昔に生きた三人のギリシャ人の言ったことであった。

 ローマ興隆の要因について、三人のギリシャ人は、それぞれ次のように指摘している。

1.ハリカルナッソスのデイオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。
 人間を律するよりも人間を守護する型の宗教であったローマの宗教は、狂信的傾向がまったくなく、それゆえに他の民族とも、対立関係よりも内包関係に進みやすかったからだろう。
 他の宗教を認めるということは、他の民族の存立を認めるということである。

2.自身が政治指導者であったポリビウスとなると、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。
 王政、貴族政、民主政という、それぞれが共同体の一部利益を代表しがちな政体に固執せず、王政の利点は執政官制度によって、貴族政の利点は元老院制度 によって、民主政のよいところは市民集会によって活用するという、ローマ共和政独自の政治システムに、興隆の因があるとしたのであった。
 なぜなら、この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたからである。

3.一方、プルタルコスとなると、ローマ興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない、と明言している。
 プルタルコスに生国ギリシヤでは、ギリシャ人以外の民族はバルバロイ(蛮人)と呼ばれただけでなく、ギリシャ人同士の間でも、スパルタに生まれた者がアテネの市民権を取得することばど問題外だった。
 一方ローマでは、どこに生まれようと問題にならず、ローマ市民権の有無だけが問われたが、これも拡大の傾向にあった。
 ある時期までは、ローマに住むだけで市民権が取得できたのである。
 ただし、ローマ人のこの面での寛容は、勝たないで譲るのではなく、「勝って譲る」であったのだが。
 
 これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいとおもわれる。
 それどころか、ローマの興隆の要因を求めるならば、この3点全部であると思うのだ。
 なぜなら、デオニッソスのあげた宗教、ポリビウスの指摘した政治システム、プルタルコスの言う他民族同化の性向はいずれも、古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである。

  知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴに劣っていたローマ人が、これらの民族に優れていた点は、何よりもまず、彼らの持っていた開放的な性向にあったのではないだろうか。
 ローマ人の真のアイデンテイテイを求めるとすれば、それはこの開放性ではなかったか。

 軍事力や建設面での業績は、それを確実にするためになされた表面に現れた現象であって、それだからこそ、ローマの戦士の軍靴の響きはとうの昔に消え、白亜に輝いた建造物の数々も瓦礫の山と化した現代になってなを、人々は遠い昔のローマを、憧れと敬意の眼差しで眺めるのをやめないのではないだろうか。
 古代ローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年たってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうとも人種や肌の色が違おうと同化してしまった、かれらの開放性ではなかったか。
 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、多民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。
 「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである。

 日本では「栴檀はニ葉より芳し 」と言う。
 イタリアでは、「薔薇ならば薔薇の花が咲くだろう」という。
 この巻であつかった時代のローマは、ニ葉の頃よりは少しは成長したにしても、人間に例えれば30歳に達したかどうかという年頃までのローマだ。
 三十にして立ったローマが、どのような試練に直面し、それをどのように乗り越えていったかを、次巻では物語るつもりでいる。





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:ひとまずの結び(前半)

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● 1996/07/25[1992/07/07]





伝承によれば、ローマは紀元前753年に建国された。
そして、史実によれば、ローマは前270年にイタリア半島の統一を完成する。
『ローマ人の物語』の第一巻『ローマは一日にして成らず』は、この五百年間をとりあげている。
この巻を書くために、必読とされている研究所歴史書は、一応は勉強したと思う。
私の知識がこれら研究者のおかげであるのは、言うをまたないくらいにはっきりしている。
だが、この種の情報は得られたものの、それだけでは何ともしっくりこない。
しっくりきはじめたのは、これらの研究者が原資料として使う、古代の の歴史書を読み始めてからだった。

同時代か、そうでなくても近い時代に書かれた史書を、学者の世界では原史料とか第一次史料と呼ぶ。
この巻であつかった五百年間に関する原史料ならば、次の四書をあげなばならない。
①.リヴィウスの『ローマ史』
②.ポリビウスの『歴史』
③.プルタルコスの『歴史』
④.ハリカルナッソス生まれのデイオニッソスの『古ローマ史』

リヴィウスは、紀元前59年に浮かれて紀元後17年に死んだ、れっきとしたローマ市民である。
生涯に、一巻の分量は少ないにしても、142感におよぶ『ローマ史』を書いた。
ただし、暗黒の中世を経てわれわれに残されたのは、建国から紀元前293年までをあつかった10巻と、前218年から前202年までの時代、つまり第二次ポエニ戦役をあつかった9巻に、前201年から前167年までの14巻の合計33巻にすぎない。
それ以外は断片として残っているだけである。
それでも彼の著作の史的価値が計り知れないほどに大きいのは、初代皇帝アウグストウス時代というローマの最盛期に生きたローマ人として、祖国の偉大な歩みを同胞たちに知ってもらいたいという想いで、逐一書き綴ったからである。
編年式の歴史叙述の典型で、複雑でしかも多くのことが重なりあって進行する歴史を、そのまま複雑に同時進行的に書いてくれているから、研究者にはこれほどありがたい史料もないが、シロウトにはなかなか読み続けられない。
だが、ローマ人が自分たちの歴史をどう見ているかはよくわかる。

ポリビウスは、紀元前202年に生まれ前120年頃死んだ。
ギリシャ生まれのギリシャ人である。
この男が『歴史』を書いた動機については、この巻の没頭ですでに述べたから詳述しないが、簡略にくり返せば、ギリシャが早くも没落したのになぜローマは興隆し続けるか、という疑問が彼をして『歴史』を書かせたのである。

日本では「プルーターク英雄伝」の名のほうで知られている『列伝』の著者プルタルコスだが、この四人のうちでは後世唯一のベストセラー作家と言ってよいだろう。
紀元後46年に生まれ120年に死んだ彼は、生きた時代の違いはあっても、ポリビウス同様ギリシャ人である
彼自らが、自分は歴史ではなく人間を描きたいと書いているように、『列伝』は、ギリシャとローマの偉人たちを並列して述べた評伝である。
ただし、愉しいエピソードが満載されているからただ単に面白いだけの書物かと思うと、完全にまちがう。
実に鋭い指摘が随所に散らばっていて、革命家タイプの人物には点がカライという点は措いても、歴史家としての洞察の深さには感嘆するしかない。
相当に調べた上で書いたらしく、史料としても一級である。

ハリカルナッソスのデイオニッソスと呼ばれている『古ローマ史』の作者は、生年も没年もはっきりしない。
ただ、紀元前7年にこの書を刊行したということははっきりしているから、彼もリヴィウス同様、アウグストウス時代に生きた人であろう。
『古ローマ史』は、建国から第一次ポエニ戦役勃発の期限前264年まであつかった、全20巻で構成されている。
ただし、完全な形で残っているのは、全440年まであつかった9巻にすぎない、後は断片のつらなりである。
この男は、国敗れてローマに人質として連れてこられ、そのおかげで現実を直視する機会にめぐまれたポリビウスとも、また、ローマ領になったギリシャにとどまりながらも、ローマから眼が離せなかったプルタルコスとも、事情は少々違う。
かれだけは、ローマ史を書こうというはっきりした目的をもってローマに居を移し、ギリシャ語や修辞学を教えることで生計を立てながら、古い時代のローマ史を書いたのである。

小アジアの西辺にあるハリカルナッソス(現ポドルム)という、かってはアテネに先行したはぼの文明を持ちながら、当時はローマ領になって落ち着いている都市に生まれたデイオニッソスは、それだけになお、ローマの興隆の源泉を探りたいという想いが強かったのであろう。

同時代か、時代はちがってもせいぜいがところ百年ぐらいしかちがわない時代に生きた研究者たちの著作に、なんとなくしっくりこないものを感じていた私に、まるで素肌にまとう絹衣のように自然に入ってきたのが、この三人のギリシャ人の史観なのであった。


(注).三人のギリシャ人の史観とは
②.ポリビウスの『歴史』
③.プルタルコスの『歴史』
④.ハリカルナッソス生まれのデイオニッソスの『古ローマ史』
である。




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:抜き書き(2)

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● 1996/07/25[1992/07/07]





 戦略は、政略でもあるのだ。
 いや、政略でなければならないのである。

 現代のわれわれが疑いもせずに最善策と信じている二大政党主義は、信じているほどの最善策であろうか。
 現代では最も長命な組織であるカトリック教会は、典型的な抱き込み方式を踏襲してきた組織である。

 実現の手段となると対立してしまうが、手段なるものを大別すると、次の二つに分かれるかと思う。
 第一は「民意優先」派としてもよい考えをもつ人々である。
 主権在民であるのだから、国民の意を反映させながら公共の利益をたっせいすべきである、と考える人々である。

 第二は「公益優先」派としてもよいかと思う。
 公益こそが何にもまして優先さるべきと考える人々で、民意の繁栄はかならずしも公益の向上をもたらすとは限らない、と考える人々である。
 アメリカ合衆国の二大政党が現在でもこの意味を踏襲しているとはいわないが、名称だけならば民主党を「民意優先党」、共和党を「公益優先党」とでも訳していたらなら、もっとはっきりしたであろうと思う。

 人類はしばしば、先見性に富む人物を生んできた。
 彼には先が見えるから、現在なにをなすべきかがよくわかる。
 しかし、認識しただけならば、先見性をもった知識人、で終わってしまう。
 見え、りかいしたことを実行に移すには、権力が必要だ。
 マキアヴェッリも、「武器をもたない預言者は自滅する」と言っている。
 トロイの女王カッサンドラは、ギリシャ勢によるトロイの滅亡を予見し、それを防ぐための対策をトロイ人に説いたが、誰からも相手にされなかった。
 ユーロッパでは今でも、せっとくさえすれば聞き入れられると信じている人を「カッサンドラ」と呼ぶ。

 それで権力の獲得が先決問題となってくるのだが、どうやって権力を築くかには、その次代の流れがどの方向に、しかも大波になって向かっているかを察知する能力が求められる。

  古代ローマの通史を物語る歴史書となると、ひとつの例外もなく、王政から共和政に移行したとたんに共和制ローマの政治システムについての説明が、親切なものなら図表入でなされるのが通例になっている。
 だが、私はあえて、この方法をとらない。
 このやり方は私には、当時のローマの実情を映していないと思えたからである。
 前509年に共和政に移行したとたんに、ローマは整然とまとまった政治制度を確立し、それを有機的に機能させていたかのような印象を与えやすい。
 ところが、実際のローマ人は、前369年にいたるまでの長い歳月、種々の条件が整わなかったとしても、模索に次ぐ 模索を重ねてきたのである。

 ローマ人には、敗北から必ず何かを学び、それをもとに既成の概念にとらわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことから再び起き上がる性向があった。
 負けっぷりが、良かったからではない。
 負けっぷりに、よいも悪いもない。
 敗北は、敗北であるだけなのだ。
 重要なのは、その敗北からどのようにして起ち上がったか、である。
 敗戦処理をどのようなやり方でしたのか、である。

 ローマ人は保守的であったというのが定説になっている。
 だが、真の保守とは、改める必要があることは改めるが、改める必要のないことは改めない、という生き方ではないだろうか。

 人間世界では、はじめから遠い将来まで見透し、それに基づいていわゆる百年の計を立て、その計を実行に移せる人間は多くはない。
 少ないから天才なのだ。
 天才以外の人間は、眼前の課題の解決 だけを考えて方策を立てる。
 だが、ここからは進路は二つに分かれる。
 眼前の課題解決のみを考えて立てた方策を実行したら、結果としてそれが百年の計になっていたという人と、眼前の課題は解決できたが、それは一時的な問題解決にすぎなかった、という人の二種類だ。
 後者の偶然は偶然でとどまるが、前者の偶然は必然になる。
 歴史上の偶然が歴史的必然に変わるのは、それゆえに人間の所業によってである。
 後世から見れば歴史的必然と見えることのほとんどは、当時は偶然に過ぎなかったのだ。
 その偶然を必然に変えたのは、多くの場合人間である。
 ゆえに、歴史の主人公は、あくまでも人間なのである。
 
 敗北を喫した後のローマ人の態度は、時代を越えて次の3点に要約される。
①.第一に敗軍の将は罰せられない。
 現代の我々ならは、失地挽回の機会を与えるためと考えるところだが、ローマ人はそのように考えて敗軍の将の責任を問わなかったのではない。
 自分の勝利は、自分が属している共同体(レス・プブリカ)が勝ってはじめて成就するものとローマ人は考えていた。
 それゆえに、共同体内で自分に課された任務に失敗した人間は、身も世もない恥辱に苦しむことになる。
 解任したり罪に問う必要はないのだ。
 恥に苦悩するという罰を、十分に受けたからである。
 名誉心を徳の第一と考えたローマ人にしてはじめて、名誉を失うことが何より重い罰になるのだ。
②.敗戦処理の第二は、新戦術の導入だった。
 <<略>>
③.それまで進められていたローマの基本政略、一段とその有効性を自覚しての継続であった。
 <<略>>
 古代から現代にいたるまで、歴史家たちがこぞって認めるローマ人の特質の一つは、敗北を喫しても、その害を最小限にとどめる才能と、勝てば買ったで、その勝利を最大限に活用する才能である。

 同盟関係にあった国が離反する場合、その国に独立独歩でいける力ができたから離れたというのは実にまれな場合に限られる。
 多くの場合は、別の強国に ついたほうが得だと思った結果だ。
 それゆえに、覇権国家は、常に自分のほうが強いと示し続ける宿命を持つ。

 歴史を叙述していくうえでの難しさは、時代を区切って明確に、この時代には何がなされ、次の時代には何がなされたと書くことが、戦記であってさえ不可能なところにある。
 不可能である理由の第一は、ほとんどの事柄が重なりあって進行するからである。
 理由の第二は、後で大きな意味をもってくる事柄でも、
 偶然な出来事という形をとってはじまる場合が多いからである。

 歴史は必然によって進展するという考えが心理であると同じくらい、
 歴史は偶然のつみ重ねであるとする考えも心理になるのだ。

 こうなると、歴史の主人公である人間に問われるのは、悪しき偶然はなるべく早期に処理することで脱却し、
 良き偶然は必然に、おっていく能力ではないだろうか。

 多くの遅咲きの感があるローマ人が、他の民族と比べて優れていたとしてもよいのは、この面の才能ではなかったかと思われる。




[ ふみどころ:2012 ]



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2012年9月27日木曜日

:抜き書き(1)

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● 1996/07/25[1992/07/07]





 ギリシャ・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト今日を典型とする一神教の違いは、次の一言につきる。
 多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。
 一神教では、それこそが神の専売特許なのである。
 多神教の神々は、人間並みの欠点を持つ。
 倫理道徳の正し手ではないのだから、欠点をもっていても一向に差し支えない。
 だが一神教になると、完全無欠でなければならない。
 なぜなら放っておけば手に負えなくなるとされる人間を正すのが、神の役割であったからである。

 西暦紀元の前後、ちょうど境目に生きたギリシャ人の歴史家デイオニッソスは、その著作『古ローマ史』の中で次のように言っている。
 「ローマを強大にした要因は、宗教についての彼らの考え方にあった」と。
 ローマ人にとっての宗教は、指導原理ではなく、「支え」に過ぎなかった。
 宗教を信ずることで人間性が金縛りになることもなかった。
 デイオニッソスによれば、狂信的でないゆえに排他的でもないローマ人の宗教は、異教徒とか異端の概念にも無縁だった。
 戦争はしたが、宗教戦争はしなかった。
 
 一神教と多神教の違いは、ただ単に。信ずる神の数にあるのではない。
 他社の神を認めるか認めないか、にある。
 他社の神を認めるということは、他社の存在も認めるということである。
 ヌマの時代から数えれば2,700年は過ぎているのに、いまだにわれわれは
 「一神教的な金縛り」
から自由になっていない。

 とはいうものの、人間の道徳倫理や行為の正し手を引き受けてくれる型の宗教をもたない場合、野獣に堕ちたくなければ、個人にしろ国家という共同体にしろ、事情システムをまたなければならない。
 ローマ人にとってのそれは、法律であった。
 宗教は、それを共有しない人との間では効力を発揮しない。
 だが、法は、価値観を共有しない人との間でも効力を発揮できる。
 いや、共有しない人との間だからこそ必要なのだ。

 人間の行動原理の正し手を、
  宗教に求めたユダヤ人。
  哲学に求めたギリシャ人。
  法律に求めたローマ人。
 この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かび上がってくる。

 神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある。
 
 急速に発展した民族は、衰退も急速だ。

 スキャンダルは、力が強いうちは攻撃してこない。
 弱みがあらわれたとたんに、直撃してくるものである。

 改革の主導者とはしばしば、新興の勢力よりも旧勢力の中から生まれる。
 改革というものは、改革によって力を得た人々の要求で再度の改革を迫られるという宿命を持つ。
 改革とは怖ろしいものなのである。
 失敗すれば、その民族の命取りになる。
 成功しても、その民族の性格を決定し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまう。
 軽率に考えてよい類のものではない。

 言葉の力というものは、そうそう馬鹿にしたものではない。

 通商とは、異文明との接触である。
 接触は情報という形による刺激をもたらす。
 そして富は、その刺激を別の形に転化するのに大変便利なものである。

 政体の変遷を学ぶには教科書どおりでよい。
 しかし、各政体の良否を判断するのは、教科書どおりではいかない場合がある。
 政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。
 どのような政体を選ぶかは、どのような生き方を選ぶかにつながる。

 独裁政は、独裁者の才能や性格に左右されないではすまない。
  独裁政の欠陥は、それを行使する人物の資質に無縁ではない。
 優れた資質に恵まれた人物は、なぜか続けて登場してこないものである。
 そして、独裁政の最大の欠陥は、たとえ悪が出てもチェック昨日をもたいないところにある。

 いかに低い水準に押さえられようと、明が平等に低い水準にあるなら嫉妬は生じない。
 持てる者と持たざる者とに生ずる階級闘争にも無縁でいられる。

 戦争は、それがどう遂行され、戦後の処理がどのようになされたかを追うことによって、民族の性格が実によくわかるようにできている。
 歴史叙述に戦争描写が多いのは、人類があいもかわらず戦争という悪から足を洗えないでいるからと言うよりも、戦争が、歴史叙述の、言ってみれば人類叙述の、格好な素材であるからだ。

 衰退期に入った国を訪れ、そこの示される欠陥を反面教師とするのは、誰にでもできる。
 絶頂期にある国を視察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。
 まねしなかったということは影響を受けなかったということにはならない。
 模倣しなかったということも、立派に影響を受けたことになる。

 自由と秩序の両立は、人類に与えられた永遠の課題の一つである。
 自由がないところに発展はないし、秩序のないところでは発展は永続できない。
 とはいえ、この二つは、一方を立てればもう一方が立たなくなるという、二律背反の関係にある。
 この二つの理念を現実の中で両立させていくのは、それゆえ政治の最も重要な命題となる。

 力といっても軍事力しかもたなかったスパルタは、強国になれても覇権国家で在り続けることはできなかった。
 スパルタ人には、敗者さえも納得させられる生活哲学がなかった。
 スパルタ人のライフ・スタイルは輸出不可能だった。
 他国人は「スパルタ式」に魅力を感じなかった。
 スパルタ人の生き方は、防衛には適しているだろうが、それゆえに発展には適していない。
 スパルタには、秩序はあっても精神の自由がなかった。

 「氏と育ち」は、教育制度の充実していない時代にの教育機関である。

 勝利の喜びがおさまれば、後には悪い印象だけが残る。
 
 衆愚政とは、人材不足からくる結果ではなく、制度が内包する構造上に欠陥が表面に現れた減少に思える。
 』



[ ふみどころ:2012 ]



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★ ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず:塩野七生

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● 1996/07/25[1992/07/07]




読者へ

古のローマは、多い時で30万にものぼtる神々が棲んでいたという。
一神教を奉ずる国々から来た人ならば眉をひそめるかもしれない。
八百万(やおよろず)の国かた来た私には、苦になるどころかかえって愉しい。

古代ローマの心臓部であったフォオ・ロマーノの移籍の崩れた石柱にでも座って、ガイド・ブックの説明書を開いているあなたの肩越しに、なにか常ならぬ気配を感じたとしたら、それは、生き残った神々の中のいたずら者が背後からガイド・ブックをのぞいているからなのだ。
自分たちのことを二千年後の人間はどのように書いているのかを知りたくて。

「いや、わたしがきちんと書きますよ」
と言ったかどうかは知らないが、エドワード・ギボンは。フォロ・ロマーノを訪れたがために大作『ローマ帝国衰亡史』を書くことになり、青年アーノルド・トインビーは、古代のローマを求めてイタリア中を自転車で旅することになった。
この二大歴史家とは比びようもないほどに小さな存在である私たちとて、ローマを訪れれば、いや古代ローマ人の足跡、北アフリカでも中東でもヨーロッパでも、彼らが遺した足跡を訪れれば、ごく自然に考えるようになるのではないか。
  古代のローマ人とはどういう人達であったのだろう、と。

知力では、ギリシャ人に劣り、
体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、
少なくない資料が示すように、ローマ人自らが認めていた。

それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。
一大文明圏を築きあげ、それを長期にわたって維持することができたのか。
またそれは、ただたんに広大な地域を領有を意味し、大帝国を築くことができたのも、そしてそれを長期にわたって維持することができたのも、よく言われるように、軍事力によってのみであったのか。
  そして彼らさえも例外にはなりえなかった衰亡も、これまたよく言われるように、覇者の陥りがちな驕りにやったのであろうか。 

これらの疑問への解答を、私は急ぎたくない。
人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史に対して、手軽に答えを出しては失礼になる。
また、私自身からして、まだはっきりとはわかっていないのである。
史実が述べられるにつれて、私も考えるが、あなたも考えて欲しい。
「なぜ、ローマ人だけが」と。

それでは今から、私は書きはじめ、あなたは読みはじめる。
古代のローマ人はどういう人たちであったのか、という想いを共有しながら。

1992年 ローマにて    塩野七生




序章

紀元前167年、衰退しつつあったギリシャから、一千人の人質がローマに連れてこられた。
いずれも、ギリシャでは社会的な立場の高かった人々である。
その中に、36歳になっていたポリビウスがいた。

紀元前150年、ギリシャの人質たちに、祖国への帰還がゆるされた。
17年前の一千人は、三百人に減っていた。
この年に同胞とともに帰国したポリビウスだったが、その後もしばしなローマを訪れている。
前149年からはじまって3年間続いた第3次ポエニ戦役には、総司令官に選ばれていたスキピオに同行した。
7日7晩燃え続けたというカルタゴの終焉も、現場にいて実際に見たのである。
ポリビウス、57歳の年であった。
それから82歳で死ぬまでの20年あまりの間に、40章からなる『歴史』は書かれたとされる。
これまでの歴史作品がギリシャを中心とする東地中海世界を主としてあつかっていたのに比べ、ポリブウスの『歴史』は、ローマに眼を向けた、それも実証的な立場から焦点を当てた、最初の歴史作品になった。
ローマを物語った信頼のおける本格的な歴史の第一作は、こうして他国人であるギリシャ人によってかかれたのである。

なぜギリシャは自壊しつつあり、ギリシャは興隆しつつあるのか。
彼は、なぜ、という問を発する。
この問いが、彼に『歴史』を書かせた。
ポリビウス自身、序文の中で次のように言っている。

よほど愚かでよほどの怠け者でないかぎり、このわずか53年間にローマ人がなしとげた大事業が、なぜ可能であったのか、またいかなる政体のもとで可能であったのかについて、知りたいと望まない者はいないであろう

ボリビウスは53年間と明記している。
おそらくそれは、、紀元前202年にハンニバルの敗北で終わった第二次ポエニ戦役から、前146年のカルタゴの滅亡で終わる第三次ポエニ戦役の最初の年までを数えてのことだろう。
この50年あまりの間に、ローマは地中海の覇者になったのである。
実際、これ以降の地中海世界の歴史はローマの歴史とイコールになる。

しかし、ローマは、53年前に突如出現したのではない。
ギリシャ人の注目は浴びなかったにしても、ゆえに歴史を書こうと考えた外国人があらわれなかったとしても、ザマの戦闘より500年以上も昔にさかのぼらねばならない、長い助走の歳月をもっていた。
五十数年ではなく、五百数十年 である。
ろーまはやはり、一日では成らなかったのだ。

連作の第一作になる本書では、ローマの建国からはじまって第一次ポエニ戦役直前までの500年間をとりあげる。
好調の時期ですら一歩前進半歩交代と評してもよいくらいで、悪くすると十歩も二十歩も後退してしまい、元に戻るまでに数十年を要するという、苦労の絶えない長い歳月の物語になる。
だが、後にローマが大をなす要因のほとんどは、この500年の間に芽生え育まれたのである。
青少年期になされた蓄積が、30にして立った ときにはじめて真価を問われるのに似て。

(注:抜粋である)








[ ふみどころ:2012 ]



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2012年9月9日日曜日

:未来への胎動

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● 2005/08/25[2005/07/20]



 人民代表大会選挙には、大きな制度的制約がある。
 自薦候補は、立候補するのは自由だが、「正式候補」になるのは難しい。
 そこには巧みな「参入障壁」が設けられている。
 また、正式な候補者を確定するのは、選挙委員会であるが、そのトップはすべて党と政府関係者であり、選出プロセスは公表されない。
 現状では、候補者決定に党が介入することをやめなければ、人民代表大会が真の議会になることはない。
 選挙民は、等の利益を代表する候補者からしか選べないのである。
 問題は、それが一党支配に有利であっても、民意を政治に繁栄させることは制度的に難しいということだ。
 最終的には、政治と民意の距離を広げ、摩擦が増え、執政能力を削ぐことになる。

 「中国には政治化はいない。いるのは官僚だけだ
と言われる。
 中国の人民代表大会は、官僚が支配するぎかだ。
 ここでいう官僚とは、党・政府・人民団体(党の指導下にある団体)の幹部だけでなく、国有企業や事業単位(病院・研究所・学校・メデイア)の幹部も含む。
 全国人民代表大会代表(全人代。国会議員に相当)は、7~8割が官僚である。
 
 これまで中国は、経済成長が続いてきたため、
 「民主化を断行すれば、混乱に陥り、経済成長も止まる」
という議論が主流を締めてきた。
 だが、民主化を後回しにした「ツケ」が明らかになりつつある。
 民主化の遅れがむしろ経済成長の足を引っ張る可能性が見えはじめたのである。

 上からの統治は膨大なコストを必要とする。
 末端まで統治するには、行政の肥大化は避けられない。
 その結果、政府の権限は無制限に膨張し、腐敗も悪化する。
 さらに行政機関の運営を維持するために、農民からの費用徴収も増える。
 徴収しないならば、今度は負債が増えていくだけになる。
 すでに医療、教育、衛生などの公共サービスが提供できず、自己負担が重いたMジェ、農村政権は統治能力を失いつつある。
 このまま報知すれば、統治能力のさらなる低下と民衆の反乱は必死だ。
 すでにその長江は見え始めている。
 これからは、「民衆による自治」しかないという見解は、かなりの指示を得つつある。
 ただ、現実問題として、これまであらゆる権限を党に集中してきたために、民主化に踏み切れば混乱も生じるという懸念があることも確かだ。
 最後に残る問題はやはり、一党支配と民衆の自治との軋轢だろう。
 「党が選挙を指導する」ということからわかるように、党はあくまでも「統制下の民主」を求めている。
 民主化についても必要は認めているが、あくまで「党内民主」の範囲のものである。
 「党外民主」はタブーだ。
 果たして、それで民主化要求の流れに対応できるかどうか。
 そこがこれからの焦点になってくる。

 1978年に鄧小平が「改革開放政策」を打ち出して以来、中国は輝かしい経済成長を達成した。
 実質国内総生産(GDP)は約9倍になっている。
 貿易額は、世界ランキングで32位から3位(2004年)にのし上がった。
 このような改革のメリットを実感できた80年代後半まで、民衆の絶対多数は明らかに「改革」を支持していた。
 だが、90年代に入ると状況が変わってくる。
 経済格差が広がるにつれ、「改革とは何なのか」という超えが出てきたのである。

 「計画経済を継続しようとする」勢力は見えやすい。
 貧しいが平等に見えた毛沢東時代を懐かしむ「左派」だ。
 むしろやっかいなのは、「改革の名目で民衆から略奪する」勢力だ。
 前者は保守派、後者は改革派と呼ばれるだけに騙されやす。
 「改革の名目で略奪する」行為は、国有企業改革が典型である。
 改革の旗印を掲げ、国有企業を官僚や取り巻きが私物化し、労働者はリストラの憂き目をみる。
 開発や都市化をスローガンに地上げで儲ける役人たちもそうだ。
 経済成長の陰で、民衆は強引な地上げの犠牲になっている。

 人々が改革に希望を失い、半改革勢力の側に立てば事情は複雑になる。
 改革初期には改革にメリットがあると思っていたが、今は果たしてそうだろうか、と。
 「改革」が疑われ始めた原因は、まず第一に「収入格差の拡大」である。

 「民意の分裂」を招いている根本原因は、経済と政治のズレである。
 改革のゆがみは、明らかに硬直化した政治体制がもたらしたものだ。
 経済が市場化している一方で、政治は相変わらず計画経済時代の中央集権・官僚支配型である。
 政治は官僚支配で計画経済のままで、経済だけを市場経済化しようとしているのである。
 この体制で中国は市場経済化が可能なのか。
 民間企業が自由に発展する土壌がないまま、果たして市場経済が成立するのだろうか。
 「改革」を真の改革にするには、市場経済に見合った政治体制が必要である。
 それはおそらく、法治に裏付けられた民主政治だろう。

 毛沢東・鄧小平・江沢民といった歴代の共産党指導者は、すべて三権分立を資本主義的として否定してきた。
 胡錦濤も例外ではない。
 彼らは三権分立を現行の政治体制と敵対する「西側」の概念として危険視している。
 その理由は簡単だ。
 立法・行政・司法が独立し、壮語にチェックしあう体制は、共産党一党独裁体制を根底から覆すものだからである。
 党から独立した三権は存在してはならないのだ。

 これまで、「中国は政治体制を変えなくても成長は維持できる」という見方が内外でかなりの説得力をもってきた。
 高度成長が続き、そのため政治改革の必要性は忘れ去られていたのである。
 だが、社会のあらゆる局面で独裁のほころびが顕在化しつつある。
 官僚による「政治独裁」が「経済独裁」を生み、「政治は独裁、経済も独裁」という現象が蔓延している。
 それが民間企業の発展をさまたげ、民衆の権利も侵害しているのである。
 
 中国共産党が「安定第一」と強調するのは、「経済成長のために安定が必要、したがって’独裁が必要」というロジックである。
 つまり、「民主化=不安定」ということだ。
 独裁が高度経済成長を維持してきたのであれば、維持できなくなったときは独裁も存在意義を失うということになる。

 在米中国人学者は次のように指摘する。

 党国家における支配政党の弱体化は、国家のパワーを枯渇させる。
 そうした国家の不能は、極限に達すれば「失敗国家」(failing state)になる。
 失敗国家は、治安、教育、医療、環境保全、法執行などの基本的なサービスを提供する能力がない。
 中国では過去20年間、ますますそうなってきている。
 中国経済がブームのなかにあるときにこういう現象が起きているという事実は、特に危険である。


 独裁は、国民に十分な公共サービスを提供できてこそ求心力を維持できる。
 それがなくなると、残されるものは「剥き出しの権力」だけだ。
 そのとき、膨大な統治コストが必要になる。
 抑圧のための官僚機構も肥大化する。

 独裁の最大の弊害は、ヒト・モノ・情報の流れが遮断されることにある。
 民間企業が自由なネットワークで連携できなければ、技術革新も企業家も生まれない。






[ ふみどころ:2012 ]



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