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● 2011/04/10[2008/02]
『
感謝をこめて
『にこにこ貧乏』の前身、『おらんくの池』の第一回掲載は、週刊文春2002年6月6日号である。
生まれて初めて書いた週刊誌随筆は、「鯨の話」で始まった。
今年(2006年)の6月1日から、これも生まれて初めての『新聞小説』が始まった。
初の新聞小説は、ぜひとも郷里の高知新聞からはじめたい‥‥
長らく願っていたことが、うれしくも実現した。
物語の舞台には、土佐と江戸、それに伊勢神宮の三カ所を選んだ。
江戸時代には、諸国から伊勢神宮に参詣する『伊勢講』が大流行した。
江戸からも土佐からも、お伊勢参りは一世一代の大事だった時代である。
どんな道中になるかを描く、ロードムービー小説を目指して書き進めている。
物語の中で、『鯨組(くじらぐみ)』を描くことになった。
高知・室戸岬では、寛永年間から古式捕鯨が行われていた。
新聞小説スタートから30日が過ぎた、7月1日。
古式捕鯨の詳細が知りたくて、室戸市を訪れた。
「古式捕鯨の話になったら、ついつい時間を忘れます」
室戸市で写真館を営む多田運氏は、まさしく古式捕鯨の生き字引。
鯨獲りの詳細を話しはじめると、温和な顔にいきなり朱がさした。
『鯨組』という組織の実態も、多田氏にご教示いただいた。
いまでいう捕鯨会社のことだが、江戸時代の室戸には、2つの鯨組が組織されて’いた。
「浜に男児が誕生したら、その子のには生涯、一日あたり一升の扶持米が鯨組から支給されちょりました」
鯨組の浜に生まれた男児は、長じたのちは鯨組に属する。
男児誕生祝いの扶持米は、いわば報酬の前払いのようなものだ。
鯨一頭を仕留めれば、七浦が潤ったという。
室戸には二つあった『津呂組』『浮津組』の鯨組と、その浜の住民は、鯨に挑みつつも、鯨と共生していた。
写真館を営む多田氏は、膨大な古式捕鯨の資料の多くをカラー写真に複写されていた。
どの一葉をとっても、物語を書き進めるうえでは、特級資料である。
ぜひにもコピーをとお願いしたら、
「この資料で物語がおもしろうなるなら、どうぞお持ちください」と。
せめて実費を払わせてほしいと頼んでも、頑として拒まれた。
『土佐のいごっそう』は、一度口にしたことは、溶けた鉛を身体に流し込まれても、二度と引っ込めない。
こどもの自分に聞かされた「おとな言い分」を、多田氏に接して思い出した。
わたしにも、いごっそうの血は流れている。
「物語がおもしろくなるなら」と多田氏に」言われたことを全力で果たすだけである。
ゆえにいまは、鯨に夢中になっている次第である。
』
[ ふみどころ:2012 ]
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