2012年7月14日土曜日

:文学的知識量が教養とされる時代は終わっている

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● 2009/10/15





 アメリカは技術主義ですよね。
 大学に創作科(クリエテイブ・ライテイングコース)というのがあって、技術として創作を教えている。
 現役の作家が教師として雇われていて、短編小説の書き方を教えるんです。
 それで実際に短編を書かせて教師もチェックするし、学生同士が批評しあったりする、
 それで作品を『ニューヨーカー』なんかに送って、よいものは掲載されたりする。

 日本の大学教師には、笑いのセンスが不足している。
 だから授業が下手なんだ。
 最初の授業の冒頭に一分以内に学生を笑わすことができなかったら、その授業はもうダメなんです。
 最初の一分間。
 お笑いでいう「つかみ」ってやつが本当に大事です。
 できればそこから次の一分間に、小さくでもいいからもう一回笑わせることができれば、それから先は10分間ぐらいまじめな話をしたって大丈夫なんです。
 学生を聴く気にさせるというのは重要です。

 教師がどんなに立派な授業をやってても、たいていの場合は自己満足に終わるような’気がする。
 一方的に高いところから話して
 「俺はこんないいことしゃべってるんだぞ」
なんて。
 それがいくら立派な内容でも、学生に伝わらなくちゃ意味がない。
 学生の心に伝えたいことがストンと落ちて、それではじめて授業は成立する。
 だから、届ける技術が必要なんです。
 ぼくは、それは笑いだと思う。

 最初の笑いは雰囲気づくりなんです。
 そこから本筋的なことを言いながら、でも脇道にそれた面白い話をして、ところが実はそっちのほうが枝はを広げた本筋、なんて組み立てていくわけ。
 もちろんその間にも5分に1回は笑いをいれなきゃいけない。


助手:
 小学校、中学校、高校の授業なんかだと、先生はやはり興味をもたせることに心を砕いていますよね。
 教育実習に行ったときも、それはもうしつこく教えられました。
 教育実習では、まず授業の組立を作ってきなさい、っていわれるんですんね。
 で、作っていくと
 「一番最初のつかみ話は何?」
 「これでは子どもは興味をもたない。もっと違うところからはじめて」って。


 そうそう、ちゃんと理解させることを考えてる。
 それに引きかえ、大学教師は訓練を受けていないうえに、プライドが高い。
 始末に負えない。
 それでいま文科省が、大学教師の教える能力をあげようとしているんだけど、単純にはいかない。
 結局、技術化できることには限度がある。
 そこから先は個人の努力。
 笑いなんか特にそうで、準備しておいたり他の人がウケたものをもらってきところで、うまく笑わせられるかどうかわからない。
 反対に、予定していなかった笑いが授業を盛り上げてくれることもある。


助手:
 その笑いが面白くないってこと、多いと思うんです。


 それは訓練ですね。
 それからやはり、最初の冒頭で、うまく学生との関係を作れるかどうかにかかっている。
 最初の授業で「この先生は面白いかもしれない」という信頼関係がつくれたら、授業が真面目に偏ってしまうときでも聴く気を継続してくれる。
 それを一年継続していけるかどうかは、やはり絶えざる笑いです。
 信頼関係が出来上がるまでの授業では、学生との間に「この人はダジャレを言っても許せる」という人間関係を作らないと。
 最初からオヤジのダジャレでいくと、これはもう完全に引きますよね。
 信頼ができたところでダジャレの比重が増えていく。
 だからむしろシリアスな話題を入れるのが難しい。

 硬軟をどう織り交ぜるかという大変さは、それはもう日々の鍛錬です。
 欠かさずお笑い番組を見て、学生が何に関心があるかということも仕入れて、どいう歌手が売れているとかね。
 そこまで含めてとっさに何か出さなくちゃなんないコンテクストはあるわけで、それは冗談反射という形で出す。
 いかにたくさんのポケットを持っているかという。
 でも一番重要なのは、笑いが聴き手の心の窓を開く、という点ですね。
 
 理系には技術や知識がある。
 でも文系は、趣味に毛が生えたというか。
 それなら代わりに何を与えられるか。
 今の大学で週一回だけ授業をやるような形だと、知識の伝達にしろ、人間関係の構築にしろ、なかなかうまくゆかない。
 文学的な知識量が教養とされた時代は、もう終っている。
 じゃあ、われわれは何を教えていけばよいのか。
 教師の間でもコンセンサスはとれてない。
 そのなかでぼくは、今の社会自体が権力やイデオロギーによって作られた歴史的な産物であって、すべて信じるには足りないということを、学生が自分の力で理解できる思考力を養いたいと思って授業をやっている。







[ ふみどころ:2012 ]



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★ 人間は考えても無駄である:土屋賢二

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● 2009/10/15






 老化を防ぐ方法はある。
 それは遺伝子組み換えなんて技術を使わなくても可能です。
 細胞の寿命を延ばすとか、活発にさせるとか。
 あるいは老化に伴って生じてくるものを出させないとかね。
 遠い話だけど。

 ただ、「不老」と「不死」の問題がある。
 『ガリヴァー旅行記』に不死の力は与えられたけど、不老の力は与えられなかったから、醜く老いさらばえて、でも生きてる、という不死の例が出てくる。
 不死だけじゃダメだ、やっぱり不老が伴わないと。
 不老の定義をしなくちゃいけないけど、かりに「いつまで経っても若々しい」と定義すると、ある程度できるかもしれない。
 でも不老不死なんてことが実現したら、人類は破滅する。
 生まれたからには、やっぱり死ななくちゃいけない。
 ちょうど120年ぐらいで死ぬように人体は設計されていると言われている。
 120歳までは、見た目にも若くて痴呆にもならず、それでもリミットがきたら死んじゃうという、それは実現できればと思います。
 実現の可能性も高いと思う。

 理系の人間ていうのは、
 新発明とか新発見とか、そういった新しいっていう意味の「しん」、
 進歩とか進化の「しん」、
 それから真実の「しん」、
そういう「しん」が好きなんです。
 「しん」の先には必ず「良い何かがある」という妄想にとりつかれてる。
 それでずっと考えるという習性がある。

 世の中、科学的発見をし続けなくてはいけないという強迫観念に囚われているみたいなところがある。
 そのために、物事をすべて細かく分析して、いわばデカルトの要素還元的なことをやっていく。
 それで新しい事実を発見すると、技術に転換できる。
 こういうやりかたで、科学の可能性は無限に広がっていく。
 科学者ってほっておけば、何でもやっちゃう。
 人間のクローンだって作ってしまう。
 放っておけば何だってやっちゃうということの裏には、知ったらやってみたいというところがある。
 知っていることを立証し、応用しようとする。
 知を尊ぶっていう部分は、哲学や文学の研究者と同じなんですが、理系の研究というのは技術という結果が出るし、国から研究費が出たりもする。
 モノを生み出せば繁栄する、という考えが根底にある。

 日本は、科学技術って一緒にしてて、科学技術振興機構なんてあるくらい。
 ケンブリッジにもオックスフォードにも工学部はない。
 カレッジの中に。MITとかカルテックみたいな、インステイテユート・オブ・テクノロジーっていうのがないでしょ。
 サイエンスはサイエンス。
 サイエンスは知を求めることであって、テクノロジーを求めるのではないんです。
 知を求めるというのは、崇高であると考えられている。
 だから、尊敬もされるし自負もある。
 非常に威厳とか格式がある。
 技術となると、修理工といったイメージでとらえられる。
 だから、まず尊敬されるのは科学者なの。
 
 われわれの世代は、
 「すべてが爆発的に変わった半世紀」
を生きてきたでしょ。
 たとえばショックレーっていう人が半導体の原理を見つけて、それが「IT」へ変化した。
 ほかにもワトソンとクリックという人が、DNAの二重螺旋の理屈を考えついて実証した。
 一次元のたった4つの情報の組み合わせて、ものすごい複雑なこともすべて網羅できるという発見。
 そうしたことを間近に見てきた。
 生まれ変わったら、もうちょっと進むところを、傍観的に見たいな。
 自分が一生懸命やるっていう真面目な態度じゃなくて見てみたい。
 生まれ変わらなくてもあと100年生きればいいんだけど、反面、
 老いさらばえてよぼよぼになって醜い姿をさらけ出してまで生きるっていうことはしちゃいけない、
と思うから難しい。

 霊長類が一番優れているという妄想があるでしょ。
 でも、人間なんて不完全で合目的的じゃないところがたくさんある。
 これからも不都合なところがたくさん見つかるよ。




[ ふみどころ:2012 ]




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2012年7月5日木曜日

★ ツチヤ教授の哲学ゼミ:土屋賢二

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● 2011/08/10[2007/09]



 はじめに

 もし
 「わたしはあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身を愛しています
と言われたら、あなたはうれしいだろうか。
 うれしくないなら、なぜだろうか。

 この挑戦的な口説き文句は、いまから2,500年前にソクラテスが考えたものである。
 この中に含まれている哲学的問題を検討し、ソクラテスの言い分が正しいかどうかを判断するのは、ふつうの人が思うほど簡単ではない。
 それを考えるのが本書の課題である。

 本書は、この問題について実際に行ったゼミナール(略してゼミ)を基にしている。
 ゼミというのは、講義とは違って、自由に発言できる議論中心の授業である。
 このゼミの参加者は大学一年生ばかり約20名で、まだ哲学を専攻するかどうかも決まっておらず、哲学の予備知識は一切もっていない。
 入学直後の4月から約半年間、哲学史上のテキストをいくつか読んで議論するゼミである。
 本書はその最初の2日間の記録である。

 ゼミを基にした理由は、哲学の問題を考え、議論するときの実際の様子が哲学を知る上で極めて重要だと思ったからである。
 議論は哲学の生命である。
 哲学はソクラテス以来、議論の応酬の中で育ってきた。
 そういう実際のやりとり、議論の応酬がなければ、哲学の活力は失われてしまう。 
 ソクラテスの対話を描いたプラトンの対話篇の魅力の一つは、その臨場感にある。

 実際のゼミは、計画通りに秩序だった論述をするのとは違う。
 ゼミでは、予想外の質問が出て困ったり、いろんな角度から説明しても学生に伝わらなかったり、理屈が複雑になりすぎたことに気づいて例をあげて分かりやすくしたつもりが、かえって分かりにくい例になったり、といった予想外のことが起きる。
 そういう一度かぎりのやりとりは、創作しようと思って創作できるものではない。
 わたしが四苦八苦する様子だけでなく、哲学の議論をするときの実際の様子が少しでも伝わることを願ってゼミの形を保存した。

 本書の基になったゼミで使ったテキストは、プラトンの『アルキビアデス』という対話篇の和訳からの抜粋で、わずか数ページの分量である。
 学生たちには、このテキストを読んでゼミに臨んでもらった。

 このテキストを選んだのは、もし
 「ソクラテスのような言い方で口説かれたらどうするか」
という、学生が時分の問題として考えやすいテーマになっているからである。
 しかも、ソクラテスは尋常ではなく、真っ向から常識に挑戦するような論理を突きつけるものである上に、正しそうに見える主張だから、誠実に考えていけば、自分の常識とソクラテスの主張の間で板挟みになるはずである。

 この意味で、哲学的にものを考える経験をするには好都合なテキストである。
 学生たちがソクラテスの主張にどう対応すればいいかを考えていくうちに、問題の大きな広がりに気づいてくれることを願っていたが、さいわい、議論の細部に至るまで理解したかどうかはともかくとして、学生たちには問題の広がりには気づいてくれたと思う。

 本書では、実際になされた議論をできるだけ保存しようとしたが、多くの点で手をいれなくてはならなかった。
 繰り返しの部分、凡庸な部分は整理した。
 また、実際の授業ではしばしば横道にそれるものだが、これも省略した。
 それに、私に説明でわかりにくいところは補足修正した。
 学生の発言はさまざまだが、どれ一つとして「幼稚な」発言はない。
 どの発言も口からデマカセでないのだから、何らかのもっともな理由に基づいている。
 学生が
 「単にそういう気がする」
というだけでも、考慮しなくてなならない事柄だとわたしは思っている。
 だから、どの発言もわたしには重みがあるし、真剣に検討すべきものである。

 本書を理解するのに、哲学の予備知識は一切不要である。
 わたしたちがふだん当たり前だと思っていることから、どうやって哲学の問題が出てくるのか、その問題を理詰めで考えていくとどうなるのか、それを身をもって知っていただくことが本書の目的である。
 もしも、理屈の世界は広く深く面白いものだということが少しでも分かっていただければ幸いである。









[ ふみどころ:2012 ]




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