2012年5月30日水曜日

:適正人口になるまで、世界の飢餓状態は収束しない

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● 2011/11/06[2006/07]



 これは自然の摂理なのかもしれない。
 あまりにも人類がふえすぎて、地球上に居住しうる限界を超えてしまったのだ。
 したがって、
 適正人口に落ちつくまで、世界的な飢餓状態が収束することはない。

 食料の増産や居住地の確保は、なんら効果をもたらさないのではないか。
 そんなものは死に直面した人類の、姑息な延命措置でしかないからだ。

 あらためて思い出すまでもなく、人類は野放図に増え続けてきた。
 7万4千万年前には1万人以下だった人類の祖先は、長い年月をかけて世界中に進出をはたした。
 その間に世界人口は増大をつづけ、西暦元年には「3億人」に達していたといわれる。
 それに続く1,000年間は、大きな変化もなく推移した。
 2億人から4億人の間で増減していたというが、急激な増加はなかったようだ。
 漸増に転じるのは、11世紀に入ってからだ。
 そして16世紀から17世紀にかけて、ようやく5億人のラインを超えたといわれている。

 世界人口の増加に加速がかかるのは、このあたりからだった。
 19世紀のはじめに10億人をこえ、20世紀の初頭には20億人に迫っていた。
 5億人から10億人まで200年ないし300年を要したのに、10億人からの倍増には100年余りしかかかっていないのだ。

 だが本格的な人口爆発は、20世紀の後半からはじまる。
 1950年には25億人だった世界人口は、その後の40年間で倍の50億人をこえるまでになった。
 人口の増加はその後もつづき、現在では60数億人にもなっている。

 その爆発的な人口増加の理由を、これまで人々は科学技術の発達に求めてきた。
 ことに18世紀からはじまった産業革命や、医療技術の普及は人類の居住環境を大幅に改善させた。
 その結果、人口はとどまることのない増加に転じた。
 ---そう信じられてきた。
 だが、本当にそうなのか。
 本当に人類は自分たちの力で、ここまできたのだろうか。
 世界中の隅々にまでに繁殖し、膨大な個体数を数えるまでになったのは、人類が知恵を授けられたからなのか。

 たしかに人類は居住に適さない極地や、食料の自給さえ困難な乾燥地帯にも版図を広げてきた。
 だがそれを科学技術の発達に求めるのは、安易である以上に傲慢な気がした。
 そうではなくて人類が増加したのは、単なる偶然だったかもしれない。

 実はこの時期の地球は、人類に対して敵意を顕にしなかっただけなのだ。 
 たまたま温暖な時期が続いたために、人が増えた、ということだけではないのか。
 
 春先に大量発生する羽虫のように、冬がくれば死滅する程度の存在でしかない。
 』


注].人口増加の最新データをwikipediaからみてみる。

 「国連の2011年版「世界人口白書」によると、2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されている」

 2011年 70億人
 1998年 60億人
 1987年 50億人
 1971年 40億人
 1961年 30億人
 1927年 20億人
 1802年 10億人


 1927年に20億人、現在2012年で70億人。
 たった「85年」で世界の人口は「3.5倍」に増えている。
 1987年に50億人だった人口が、25年後には20億人増えている。
 中国の人口ですら13.5億人しかいない。
 わずか25年間で中国1ケ半分の人口が増えたことになる。
 生物的生理生態的な常識を超えた増加率である。
 それが今の地球の姿。
 こんなことがあっていいはずがない。
 こんなことが続くはずがない。
 環境学からいうとこの一世紀は自然気象は温暖状態が続いているという。
 それによってもたらされた偶然の産物ということだろうか。

 生態学的には世界はすでに人間で飽和している。
 このまま増加するなどということはあってはならないだろうと思う。
 おそらくは、悲劇の幕開けは始まっているのかもしれない。
 日本は少子化に入り、中国は一人っ子政策を推し進めている。
 表面的には全く違った圧力だが、この底に流れているものは人間あるいは民族としての本能的危機への衝動だろう。
 おぼろげに見えるのは、
 人口過剰がもたらす悲劇の目前化
ということなのだろう。

 いまはやりくりしているが、近い将来とんでもない事態がきてもおかしくはないといっても過言ではない、
 ということなのだろうか。
 ただ、日本に住むものにとって分かっていることは、できる対処として
 「まずはとりあえず、1億人まで減らせ
と、言うことのようである。
 その間、
 日本民族にとって苦闘の日々を送る

ことになるが、そうしないとならないということのようだ。
 すべてはそのあと、それからである。




[ ふみどころ:2012 ]



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★ 日本沈没第ニ部:小松左京+谷甲州

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● 2011/11/06[2006/07]



 あとがき

 映画「日本沈没」が、33年ぶりにリメイクされた。
 その同じ時に33年間待たせた『日本沈没 第二部』が完成し、出版できたのは、全く幸運なことである。

 そもそも昭和48年(1973年)に出版された『日本沈没』第一部を書き始めたのは、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年だった。
 悲惨な敗戦から二十年もたっていないのに、高度成長で浮かれていた日本に対して、このままでいいのか、ついこの間まで、「本土決戦」「一億玉砕」で国土も失いみんな死ぬ覚悟をしていた日本人が、戦争がなかったかのように、「世界の日本」として通用するのか、という思いが強かった。

 そこで、「国」をうしなったかもしれない日本人を、「フィクション」の中でそのような危機にもう一度直面させてみよう、そして、
 日本人とは何か、
 日本とはどんな国なのか
を、じっくり考えてみようと、という思いで、『日本沈没』を書きはじめたのである。
 したがって、
 国を失った日本人が難民として世界中を漂流していく
ことが主題だったので、当初はタイトルも「日本漂流」とつけていた。

 しかし、日本を沈没させるまでに9年間もかかり、出版社がこれ以上待てない、ということで、「沈没」で終わってしまった。
 そして、「第一部 完」としたのである。

 それから「第二部」執筆のために、世界中をルポして回ったり、気象学者や海洋学者、食糧問題、人口問題の専門家などに聞いて『異常気象』というノンフィクションをまとめたり、私としてはいつもこの作品の完成を念頭に持ち続けていた。
 しかし、私自身の周辺も忙しくなり、そうこうしているうちに、世界情勢も大きく変わってきた。
 日本の「経済大国」も頂点を極めたあと、下落の道をたどり、マイナス成長の辛酸も味わった。
 米ソの二大体制も崩壊し、中国の台頭、民族、宗教の対立も先鋭化してきた。
 1990年代にはいると「地球温暖化」という言葉で、地球環境への関心も広がり、私がずっといっていた
 「地球生命としての人類」
 「宇宙の知的生命体としての人類」
という概念も、だいぶ理解してもらえるようになってきたと思う。
 このような「世界」で「日本人」が生きていくことの意味がますます問われ、「第二部」を待望するこえが強くなってきたが、如何せん、私は70歳を過ぎ、体力的にも自ら執筆することが不可能になっていた。

 しかし、古希を記念して始めた『小松左京マガジン』によって、多くの人たちの力を借りながら、知的活動をすることが可能なことを知った。
 そこで、『日本沈没 第二部』もプロジェクトチームを組んで取り組めば、完成させることができるかもしれない、という気になった。
 実際に動き始めたのは、2003年の11月からである。
 SF作家の森下一仁君のほか何人かに集まってもらい、執筆者としてSF作家の谷甲州君、というチームである。
 2~3カ月に一度か二度、場合によっては明け方まで事務所で議論し、必要な専門家のお話を聞くために出かけたり、事務所に来ていただいたりした。
 大きな枠組みとテーマは私が当初から考えていた構想に基づき、あと、具体的な人物設定、物語は皆で検討しながら、最後は執筆者の谷甲州君に任せた。
 そしてで出来上がったのが、この作品である。

 実際にネパールで国際協力事業に携わったこともある谷君らしく、現場の雰囲気をよくつかみ、壮大な物語を一年あまりで書き上げた体力は、大したものである。
 また、「沈没」から25年後の世界情勢は現代社会を反映し、現在我々が直面している「人類」としての問題を的確に捉えている。
 とても一人では達成することの出来なかった難行を、こうして多くの人々の協力によって成し遂げ、ようやく長年の肩の荷を下ろすことが出来た。
 感謝に堪えない。
 
 ここにあらためて、谷君はじめチームのメンバー、そしてご協力いただいたすべての皆様に心から御礼を申し上げたい。
 とりわけ、谷君の努力には、深甚なる感謝と敬意を捧げたい。
 本当にありがとう。
 
 2006年7月 小松 左京












[ ふみどころ:2012 ]



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2012年5月28日月曜日

★ 太陽の謎:「地球寒冷化の危機」:立花隆

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● 太陽の謎:立花隆 文藝春秋:第90巻第8号



 国立天文台の常田佐久教授の「新しい太陽像」と題する講話を聞いて驚いた。
 近年、環境問題というと、地球温暖化の話題だったが、太陽活動の観測をずっと続けてきた立場からいうと、いま本当に危惧されるのは、むしろ
 「地球寒冷化の危機
だという。

 常田教授は、国立天文台の教授であるとともに、JAXAの「ひので」プロジェクトのリーダーでもある。
 「ひので」は、2006年から飛んでいる日本の太陽観測衛星。
 すでに5年もとびつづけているが、飛び始めて大発見の連続で、世界で最も成果をあげつづける太陽観測衛星だ。
 何しろ5年間で22カ国から520篇の査読論文を生み出し(データは世界中に即時公開)、いまもなをそのハイペースは衰えていない。
 「ひので」以前と以後では太陽の見方が一変し、世界中の教科書が書きなおされた。

 なぜそれほどの大発見を連続して行えたのか。
 搭載する3台の望遠鏡が際立ってすぐれたものだからだ。
 特筆すべきは、可視光線・地場望遠鏡(SOT)
 まずその「0.2~0.3秒角」という超高分解能がすごい。
 これはハッブル望遠鏡の分解能に匹敵する。
 もっとすごいのが、地場を見せる力。
 本来、磁力線、磁場は、目では見えない。
 ところがこの望遠鏡はゼーマン効果で生まれる偏光を利用して、磁場の微細な動きを目で見て分かるようにしてしまったのだ。
 これは画期的なことだった。
 なぜなら太陽でおきているほとんどの現象が実は磁場・磁力線の作用で起きているからだ。
 原理そのものは前から知られており、地上からの観測でも用いられている。
 しかし地上からだと待機のゆらぎで、画面がボケ、磁力線の働きが鮮明にわからない。
 それが「ひので」からだと全くボケず、しかも超高分解能。
 太陽上のあらゆる現象を磁場敵現象として解析できるようにした。
 「ひので」以前の太陽観測は、目が悪い人が眼鏡なしでものを見るのに等しい行為だたtが、いまや度がピシリ合った眼鏡でクッキリスッキリ画像の連続なのだ。
 これが「ひので」が次から次に大発見をしつづけることができた最大の理由だ。
 
 NASAもこのような高解像度の太陽専用大型望遠鏡を開発しようと何十年も研究したが、強烈な太陽熱に負けて安定した架台を作れずついに失敗した。
 20年遅れで追いかけた日本は、炭素繊維複合材料で熱問題をクリア。
 1ミクロンも狂わない架台を作り上げ、驚くべき高解像度を実現した。
 かって世界最高といわれた応酬のSOHO衛星(分解能2秒角)が撮ったボケボケ写真と、「ひので」の鮮明写真を比べると一目瞭然。
 大発見の連続が当然とわかる。

 太陽はエネルギーのかたまりだが、それは磁力線の中に蓄えられている。
 磁力線はゴム紐のようなまので、これを引っ張ったり捻ったりすると、そこにエネルギーが貯められる。
 ねじりが限界に達してパチンと磁力線が切れたり、リコネクションという磁力線の劇的なつなぎ換え現象が起きたりすると、エネルギーが一挙に放出される。
 それが太陽の表面でしょっちゅう起きている爆発現象(フレアなど)のもとだ。
 その過程も「ひので」が次々に明らかにした。

 「ひので」がもうひとつ明らかにしたことは、黒点の正体。
 黒点は太陽表面に散在する黒いシミのような点で、そこだけ温度がちょっと低い。
 黒点とはなにかをめぐって昔から大変な議論が続いたが、それは結局太陽内部から外部に突き出た巨大な磁力線の柱の断面のようなものだった。
 磁力線そのものが見えないから、断面が黒く見えていただけなのだ。
 そこは太陽の中でも、ひときわ磁場が強く1000~4000ガウスある。
 これは地球の磁場(東京付近で0.5ガウス)の数千倍以上。
 「ひので」は黒点が生まれてから消滅するまでの全過程を詳細に観察して数々の発見をを成し遂げた。
 そして、黒点が太陽活動のいちばんのメルクマールになることを示した。

 その黒点の数がいまとんでもなく異常になっている。
 2008年から09年にかけて、黒点がほとんどゼロの時代が2年間もつづいた。
 こんなことはニ百年年来なかったことだ。
 黒点はガリレオ・ガリレイ以来、400年近くも詳細な記録が残されている。
 「11年周期」で増えたり減ったりすることが昔からわかっている。
 しかしここにきて、その周期が「12.6年」に伸びてしまった。
 こんなことは、1800年ころの小氷期といわれた「ダルトン極小期」以来なかったことだ。
 周期がさらに伸びて、13年とか14年になったりしたら、400年前の「マウンダー極小期」と呼ばれる小氷期の再来(ロンドンのテムズ川が凍結した)になりかねない。

 周期以上におかしいのが、磁極反転の狂い。
 従来、11年周期で、太陽の磁極がキチンと反転していたのに、北極と南極で、反転のタイミングがズレはじめたのだ(北極は11年周期で反転し、南極は12.6年周期で反転)。
 このままいくと、太陽は磁力線が南のプラス極から出て、北のマイナス極に入る二重極構造から、プラス極が北極にも南極にもあり、マイナス極が南北の中緯度地帯にできる四重極構造になるだろうという。 

 太陽の基本構造になにか重大な異変が生じていることだけは確かなようだ。
 世界の太陽観測を中心的に担っている日米欧三極の観測機関が、近く共同記者会見を開き、この異変を公表するという。
 しばらく前から黒点が再び出現しはじめ太陽は活動性を回復しつつあるものの、活性度のレベルは低い。
 太陽の活動レベルが低くなると、地球の気温は低下する方向に向かう。
 太陽の放出するエネルギー(熱、光)が低くなるからそうなるのではなく(放出エネルギーはわずかなもの)、太陽磁場が弱くなる結果、太陽磁場で妨げられてきた宇宙線がより強く地球に降りそそぐようになり、それが雲の核を作るからだということが最近の研究でわかってきた。
 CERN(欧州原子核研究機構)の超巨大加速器で実験したら、本当にその理論通りのこと起こるとわかった(「ネイチャー」2011年8月25日号)。
 この実験結果には異論もあり、これから太陽活動が一層低下し、小氷期の再現のようなことが本当に起きるのか、それとも活性を取り戻し正常化していくのかは、まだ確証がつかめない。

 しかし、小氷期に対する備えが必要なことだけは確かだ。
 気候の歴史からみえてくることは
 「小氷河時代は気候が不規則に急変した時代」
だったということだ。
 「厳冬と東風がつづいたかとおもうと、ふいに春から初夏にかけて豪雨がふり、暖冬が訪れ、大西洋でしばしば嵐が起こる時代に変わる。
 あるいは旱魃がつづき、弱い北東風が吹き、夏の熱波で穀類の畑が焼けつくようになる」。
 その時代のブライアン・フェイガン『歴史を変えた気候大変動』を読んでいると、これはいまの時代にそっくりだと思えてくる。

 要するに、これまでの固定観念にとらわれていては、
 全く対処できないような時代がこれから続く、
ということだ。
 これからしばらくは
 気候的に何でもありのの時代になる可能性が強い。 

 バカの一つ覚えでのように、地球温暖化の危機を叫ぶばかりでは’いけない。
 そして、まだまだ太陽に残る大きな謎(磁気周期の狂い以外にもたくさんある)を解くために、さらに観測を強化する必要がある。

 2018~2019年に打ち上げ予定の日本の次世代太陽観測衛星「SOLAR-C」に世界の期待が集まっている。






● 太陽観測衛星「ひので」 JAXAより





● google画像より



2012年5月12日土曜日

:司馬遼太郎さんについて

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● 1999/11/01[1997/04]



 風と雨
 余談をはさみたい。
 司馬遼太郎さんが亡くなられたからである。
 司馬さんはいうまでもなく、『項羽と劉邦』の作者である。
 その作品は「小説新潮」に連載されているときは、たしか「漢の風、楚の雨」という題であったように記憶している。
 劉邦が風であり、項羽が雨である。
 その風雨の時代が描かれている。
 中国では春秋時代が雨期であったことは「春秋左氏伝」を読むとわかる。
 人ではどうにもならない気候の変化と四季の移り変わりは、天に支配されるところであり、それが項羽の運命に投影されている。

 一方、漢の風はどうか。
 劉邦自身は、
----わしは楚人である。
といっていたように、漢(漢中)は出身地ではない。
 項羽によって漢王のみ分をさずけられたため、かれの王朝名が漢になったのである。
 風は、劉邦に「大風の歌」という詩があるところから発想されたものであろう。

 風土といういいかたがある。
 風も神であり、その風によって教化され支配される地が風土なのである。
 風は四方八方から吹く。
 その恣意的な動きは、むしろ項羽の生涯にに似ており、天命ということを知っていた劉邦は、実に楚の雨にあうという逆説を司馬さんの作品はそなえているように感じられる。
 名作である。




 精神の所在
 さらに司馬遼太郎さんについて書いてみたい。
 司馬さんにお目にかかったとき、
 「孟嘗君のような三流の人物を、あそこまでよく書いたね」
と、おっしゃった。

 拙著に『孟嘗君』という小説がある。
 史記には、「孟嘗君列伝」がある。
 それを読むと司馬遷の多少冷ややかさをもって孟嘗君を書いている。
 が、三流の評価は両司馬氏がくだしたわけではなく、漢書以後にそうなったのであろう。
 いわば中国人の認識であり、それを司馬さんがおかしみをこめて踏襲なさったのであろう。

 司馬さんの漢籍への造詣の深さはおどろくべきもので、それとは別に、塞外の民へ大いなる同情をもたれた人である。
 中国人は古代においてすでに高い城壁を築く技術を身につけ、その城壁で四方を囲み、その中で暮らすようになった。
 秦の始皇帝が中国を統一してからもその風習は消えず、中国そのものを長い城壁で囲もうとした。 
 つまり中国人の生命と精神は常に塞内で保たれてきた。
 そのことが生命力と精神力の衰退を招いたのではあるまいか。
 司馬さんは、
 「中国の歴史は逆ピラミッドだよ」
と、実際に虚空に逆三角形を指でお描きになった。
 古代のほうがひろがりがあり、漢の武帝の時代に儒学が権威を持つと、
 「あとは古代、ずーっと古代」
と、おもしろい表現をなさった。
 たしかに儒学の本質には、尚古、があり、その儒学をしらなければ官途に就けないとなれば、ほかの学問は衰えるだけになってしまう。

 司馬さんはおそらく拘束された精神を嫌っておられたにちがいない。
 とくに朱子学を否定する発言をなさったのもうなずける。
 司馬さんが欲しておられたのは豊かな精神であり、その精神は春秋時代を経て戦国時代でほぼ尽きようとする。
 それなら、長城の外で草原をのびのび疾走する民のほうがおもしろいということになる。

 それはそれとして司馬さんの漢語のつかいかたは絶妙である。
 小説の題名も『胡蝶の夢』のように『荘子』からとられたものもあり、また『翔ぶが如く』は、『詩経』「斯干(じかん)」の、
--キジの斯(こ)れ飛ぶが如し
  君子のノボるトコロ
を、想起させてくれる。
 『花神』も花をつかさどる神をあらわす漢語からきている。
 司馬さんの日本の歴史小説を読みながら、じつは中国の歴史通になっているのが読者の実態ではあるまいか。
 司馬さんの恩恵ははかりしれない。




 車上の木主(ぼくしゅ)
 中国の歴史に関心をもちはじめた人がとまどうことといえば、
--どの時代から中国史に入ってゆけばよいか。
ということではないだろうか。
 たとえば吉川英治氏の『三国志』を読んだ方は、三国時代に、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』を読んだ方は秦末漢初という革命期に、大いに興味をもたれるにちがいない。

 が、その両時代に大活躍した人々のたぐいまれなる個性に魅了され、ドラマ性の豊かさになれてしまうと、他の時代が軽薄にみえ、小説化される以前の歴史そのもののおもしろさまで手が届かなくなる。
 真に中国史のおもしろさを知るには、やはり中国人の精神世界が物と遊離しすぎない処にあるものをとらえるのがよい。
 そういう点からいえば、商(殷)末周初という時代が、中国の原形をもっともわかりやすく呈示してくれているようにおもわれる。
 孔子の論語は中国人ばかりでなく日本人にとっても、精神のふるさとであるが、
 孔子自身は殷人の子孫であるといい、商と周の違いに言及することがすくなからずあるので、商という時代をふまえていると周の時代の良否がいっそうあざやかにみえるようになる。

 わかり過ぎるということは面白みのないことで、論語でも全語句が解明されているわけではなく、そこがこの書物の魅力でもあるように、商王朝から周王朝に代わるころの事件や人物について、おびただしい謎が残されたままになっている。
 歴史とは巨大なミステリーだといっても過言ではあるまい。

 そのなかで尤(ゆう)たるものは、商の紂王を討つべく周を発した武王が、車の上に木主を載せたことであろう。
 それについて史記では、つぎのように記されている。
--文王の木主を為(つく)り、載するに車を以ってし、中軍とす。
  武王は自ら太子発と称す。
 ここでいう文王とは武王の父である。
 武王は父が亡くなると即位し、位牌にあたる木主を元帥が載るべき車に据えた、ということである。
 
 武王自身は太子と称したのであるから、まだ即位していない体にした。
 ここが実にわかりにくい。
 この時代、太子は王の嫡子であるというより、、子、すなわち王子たちが率いる軍団の総帥であるとおもったほうがよい。
 なぜ、自身が元帥にならずに、父の文王の木主を元帥にしてたのか。
 そうせざるをえなかったから、そうした、というのが歴史である。

 商王朝は紂王(帝辛)で終わり、周王朝は武王(発)からはじまることは、よく知られている。
 <<略>>
 発の父である文王は兵を休めずに中原まで攻略した。
 その周の猛威を追い払うために、帝辛は文王を捕らえ、ユウ里という牢獄に投じた。
 問題はここである。
 史記では、文王は出獄したことになっている。
 ちなみに『竹書紀年』では、帝辛の23年に文王は東国され、29年には許されている。

 だが、武王の本尊の謎をもっともすっきり解くには、文王がユウ里で獄死し、その死骸が周に届けられなかったために、怒った武王が木主を立て、復讐のために出陣したと想像するのはどうであろうか。
 ただし、そうなると私としては小説を書き直さなければならなくばる。



● 平凡社中国古典文学大系 昭和43年2月5日初版

2012年5月5日土曜日

:太史公曰く

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● 1999/11/01[1997/04]


 謎に包まれた劉邦
 漢王朝をひらいた劉邦にはわからないことが多い。
 まず生年月日がわからない。
 史記には年齢のことがどこにも書かれていないのである。
 司馬遷は漢王朝の臣であるが、高祖・劉邦の年齢を記してはいけないという禁忌があって、その記述をさけたわけではあるまい。
 そのような禁忌があったとはおもわれないから、要するにわからなかったのであろう。

 劉邦の家族についても不明なことが少なくない。
 まず両親の名がわからない
--父を太公といい、母を劉媼という。
 「高祖本紀」にはそうあるが、太公というのは劉邦が皇帝になってからの尊称である。
 また劉媼の媼は「ばあさん」というのと同じで、あるいはこれは司馬遷のユーモアなのかもしれない。
 さらにわからないのは、劉邦の兄弟である。
 劉邦のあざなは季(き)であるから4人兄弟の末と考えられるが、三男をあらわす叔(しゅく)のあざなをもつ兄の存在がみあたらない。
 また、史記には突然、交(こう)という弟の名があらわれ、劉邦はその弟を楚王に任命する。
 すると5人兄弟であったのか。

 劉邦の親戚については「荊燕世家」が設けられており、そこに劉賈と劉沢という二人の王が東城する。
 この二人について司馬遷はさじを投げた感じで、
 「不知:しらず」
と、書いている。
 出身がまったくわからないが、とにかく劉邦の一族の遠縁にあたる者であろうということである。
 それらのことをまとめてみると、いかに劉邦が卑賤の出であったか、ということである。




 呂后の殺人
 呂后はいったい何人を殺したのだであろうか。
 呂后は名は雉(ち)で、あざなを娥姁(がく)という。
 呂文の娘として生まれた。
 呂文はのちに呂公とよばれるが、経歴のわからない人である。
 単父というところで人を殺した呂公は、親交のある沛(はい)の県令をたよって、沛県に逃げ込んだのである。
 県の長官を令という。
 さしずめ市長である。

 さて、その呂公に面会を求めたもののひとりに劉邦がいたことで、呂公の一族の運命が大いに変わった。
 そのとき劉邦は配下を二人しかもたぬ役人であったが、娥姁を妻にしてまもなく起こった革命の風雲に憑り、ついに天下を制した。
 呂公の娘の娥姁は皇帝の后になったというわけである。

 呂后の最初の殺人は、叛乱の鎮定としておこなわれた。
 呂后が殺したのは、兵略の才では天下にならぶものがないといわれた韓信である。
 漢王朝がさだまりつつあるとき、自分の境遇に不満をいだいた韓信は、漢王朝の転覆をたくらむが、密告され、呂后におびきだされて斬られた。
 そのとき韓信は、
 「女こどもに詐かれるとは、天命というしかない
と、なげいた。

 呂后の殺人がすさまじくなるのは、劉邦が亡くなってからである。
 まず、もっとも劉邦に愛された戚(せき)夫人を捕らえ、手足を切り、目をぬき、耳を焼き、厠室の不浄のなかに沈めて殺し、その子の如意を毒殺した。
 二代目の恵帝に子がなかったので宮中の美人の子をひきとって帝に立てた。
 そのおり、母親にあたるその美人を殺した。
 のち、その帝が事件の真相を知ったので、幽閉して殺した。
 また劉邦の子の友(ゆう)を招き、屋敷の衛士で包囲させ、餓死させた。
 さらには劉邦の子、カイの寵姫を毒殺させた。
 そのせいでカイは自殺した。
 ほかにも劉邦の子の建と美人とのあいだにできた子を毒殺させている。

 呂后の冷血はどこからきたのであろうか。




 呂后の治世 
 つくづく史記がおもしろいとおもうのは、呂后の非情さを、ときにすさまじく、ときに冷静に描写しておきながら、呂后についてまとめの批評というべき、
 「太史公曰く」
の段になって、その治世をたたえていることである。
 絶賛といってもよい。
 それだけ読めば、呂后はまれにみるすぐれた女帝である。

 では呂后はいかなる善政をおこなったのであろう。
 長安の宮殿には城壁がなかったので、それを完成させたことは「呂后本紀」にみえる。
 が、それ以外の事業についてはまったく書かれていない。
 呂后の政治の内容にふれているのは史記の「平準書」である。
 それに『漢書』をあわせて読むと、やや実体があきらかになってくる。

 恵帝の4年に、父兄によくつかえ、耕作にいそしむ者を推挙させ、その者の租税を免除させている。
 さらに、悪法をのぞこうとした。
 人民のさまたげになっている法令をはぶき、蔵書を禁じた秦の法律を廃した。
 楚漢戦争によって中国の人口は半減したといわれる。
 人口を増やさなければ、生産力も向上しないので、恵帝の6年に、30歳までに嫁がない女子に課税することにした。
 恵帝がなくなったあと、八銖銭(はっしゅせん)を流通させた。
 秦王朝のつくった銭である。
 この銭は重いので、漢王朝は莢銭(きょうせん)という軽い銭をつくったものの、軽すぎてきらわれたために、もとの重い銭にもどしたのである。
 が、それで通貨の主流がさだまったか、どうか。
 八銖銭の再登場に反発するように莢銭の流通が盛んになったことは事実である。
 ただし、呂后が貨幣経済におざなりではなかったことはまちがいない。

 こうしてみてくると、呂后は人民に愛され、劉邦の遺児と遺臣に忌み嫌われたという、ふしぎな像を網膜に結ぶ。




● 史記「平準書」 中国古典文学大系より



 太史公曰く
 司馬遷は史記の紀伝に、それぞれ、
 「太史公曰く」
という短評を設けている。
 たとえば劉邦と天下を争った項羽については、

 攻伐の武功を矜り、自分だけの知恵をふるい、古代や古人から学ぼうとせず、覇業ばかりをとなえて、力征をもって天下を経営すること5年であったが、ついにその国を亡ぼし、身は東城に死した。
 それでもおのれの非をさとらず、おのれの過ちをせめず、かえって、「天が我を亡ぼすのであり、兵を用いた罪によるわけではない」、といった。
 どうしてそれが謬りでないことがあろう。

と、むすんでいる。

 項羽本紀はどちらかといえば項羽に同情的な筆の運びであるが、ここにきて、一転して痛烈な批判をおこなっている。
 司馬遷の史観を考えるうえで「太史公曰く」が重要であることは言うまでもない。
 では、司馬遷は劉邦をどう観たのであろう。
 高祖本紀の「太史公曰く」では、なんと劉邦について明確な批評はなく、
--漢興りて、へいを承けて易変し、人を倦まざらしむ。
  天の統を得たり
と、結語をおだやかにおいている。
 漢が興ると、秦の弊害をあらため、人民に飽かれない政治をおこなった。
 天のきまりにそった王朝である。
 そのように王朝の存在意義を述べた司馬遷が劉邦の批判を行わなかったのは、なぜであろう。
 本紀のなかで、言い尽くしたと思ったからであろうか。

 つぎの呂后本紀では、またあざやかな評言が復活している。
--天下晏然たり。

 恵帝や呂后の時代は、庶民は戦国の苦しみからはなれることができ、君臣はともになにもしないでおられるような休息を欲した。
 それゆえ恵帝は手をこまねいたままであり、生母である呂后が女ながらも主となって、命令を下した。
 その政治は閨房をでなかったにもかかわらず、天下は晏らかであった。
 刑罰がもちいられるのはまれで、罪人もめったにでなかった。
 人民は稼穡につとめ、移植はいよいよ豊かになった。

 おどろくべき善政である。
 呂后の政治を司馬遷は絶賛している。
 本紀のなかにあったのは血なまぐさい権力闘争であるのに、皇宮の外に出ると、あきれるほど平和であった。
 これほどの対蹠は、どの「太史公曰く」にもない。

 そもそも「呂后本紀」をおいたこと自体、呂氏が天下をとったことを認めたことであり、呂后の父は、秦の始皇帝のときの宰相であった呂不韋にかかわりのある人らしい。
 呂不韋は『呂氏春秋』をつくり、始皇帝に自殺に追い込まれた人である。
 司馬遷の同情は呂后を経由してそのあたりまで遡ったのかもしれない。



● 中国古典文学大系より







【付】

劉邦の大風歌 -漢建国記-
http://www.youtube.com/watch?v=9_KCbZ8qXms





[ ふみどころ:2012 ]



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:司馬遷の兵法好き

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● 1999/11/01[1997/04]



 司馬遷の兵法好き
 司馬遷はおどろくべき兵法好きである
 かれの先祖の司馬熹(しばき)は中山国の宰相であったし、司馬錯は秦の将軍であった。
 すなわち司馬遷の意識のなかには二つの職があり、天職と呼んでよいのは、伝説の中の遠祖の重黎(ちょうれい)がそうであったように、天地の秩序の守り手となり聖職であり、ほかのひとつは、兵馬をつかさどる職である。
 そのどちらにも精通していなければならぬというのが、司馬遷の自覚であったにちがいない。



 兵法書 & 陣形
 
中国の古代にはいわゆる「七書:しちしょ」とよばれる七つの兵法書がある。
 ちなみにそれらをすべてあげると、
『孫子(そんし)』
『呉子(ごし)』
『六韜(りくとう)』
『司馬法(しばほう)』
『黄石公三略(こうせきこう三略)』
『尉繚子(うつりょうし)』
『李衛公問対(りえいこうもんたい)』
 ということになる。

 中国の古代に大決戦、あるいは大会戦とよばれるものがある。
 そのとき、両軍はどんな陣形をとったのか、さだかではない。
 もっとも古い大決戦は、伝説の中の黄帝と炎帝とが戦った
 「阪泉の野の戦い(はんせんのののたたかい)」
であろう。
 これは史記の「五帝本紀」に
--三たび戦う。
 と、書かれているから、大会戦といったほうがよいが、陣形のことはわからない。

 次の歴史的な決戦は、商の湯王が夏の帝桀(けつ)を破った
 「鳴条の戦い(めいじょうのたたかい)」
である。
 そのときの商軍の陣形についてはてがかりがある。
 『墨子』のなかに、
--湯は車九両をひきい、鳥陳雁行(ちょうじんがんこう)す。
という一文がある。
 陳とは陣のことである。
 雁行はむろん雁が空を飛ぶ列の形である。

 陣形は8つあり、それを「八陣」というのは、中国の戦国時代にあらわれた天才兵法家の孫濱の兵法書にもみえる。
 日本の戦国時代にも八陣という言葉は使われた。
 魚鱗(ぎょりん)、
 鶴翼(かくよく)、
 長蛇(ちょうだ)、
 月(えんげつ)、
 鋒光矢(ほうこうし)、
 方円(ほうえん)、
 衡軛(こうやく)、
 雁行(がんこう)
が、その八陣である。

 鳥陣というのは、このなかにはなく、のちに鶴翼にかわったのであろうか。
 鶴翼の陣を好むには理由がある。
 商も周も鳥というものを神聖視していたから、天帝の使者としての鳥の形を、戦場であらわすことにより、天命をえようとしたにちがいない。
 つまり、鶴翼の陣とは、天下を制する者の陣である。

 六韜のなかに「烏雲の陣形」というめずらしいものがある。
 鳥(からす)や雲のように散ったかかと思えば、またたくまに集まる、無限に変化する陣形のことである。
 鳥陣はもしかするとこれかもしれない。

 長蛇はあきらかに孫子という兵法書にある「常山の蛇」から発想された陣形である。
 常山にいる蛇を撃とうとして、クビを撃てば尾が襲ってくる。尾を撃てば首がくる。
 あいだを撃てば首と尾がそろって襲ってくる。
 そういう陣形をいう。

 わたしは「鳴条の戦い」を小説に書くとき、商軍と戦った夏軍を魚鱗の陣であると想像した。
 夏王朝は魚が神であったとおもわれたからである。




太字
● 「孫子の兵法」復元模型



 春秋時代の軍師
 春秋時代の前期から中期までは、北の普、南の楚の南北対決、中国の特徴的様相であった。
 その両大国は3度の決戦をおこなっている。
 はじめの激突は、紀元前632年で、戦場は濮水の南の城濮(じょうぼく)であったので、
 「城濮の戦い
と、よばれる。
 普の文公と楚の成王との戦いでもあったのだが、普が大勝した。
 その勝利により普が中国の盟主の国になるきっかけをつかんだ重要な戦いでもある。
 
 つぎの衝突は、紀元前597年で、戦場は黄河南岸の邲(ひつ)である。
 「邲の戦い
は、普の景公と楚の荘王の戦いでもある。
 これは普が惨敗した。
 楚が中国の覇権を名実ともに把握したのは荘王のときだけである。
 それほどこの王はすぐれていた。

 最後の決戦は、紀元前575年で、場所はイ水の北岸の鄢陵(えんりょう)である。
 鄢陵の戦い」
は、晋の厲公と楚の恭王の戦いであり、普の勝利となる。
 ついでにいえば、厲公は景公の子であり、恭王は荘王の子である。
 じつはこの戦いの前に、それぞれの国で内乱があり、普の名門である伯宗の子の伯州犂(はくしゅうり)は楚へ亡命し、楚の名門である賁皇(ふんこう)は普に亡命していた。
 賁皇は普で苗(びょう)とういう食邑をあたえられるので、苗賁皇とよばれる。
 おもしろいことに、鄢陵の戦いのときに、伯州犂は楚の軍師に、苗賁皇は普の軍師になるのである。
 この戦いは史記の「普世家」と「楚世家」 に、『春秋左氏伝』の「成公16年」をつきあわせて読むと、春秋期の戦争が目の前に展開されるように感じられるほど詳細があきらかになる。

 伯州犂に対する苗賁皇は、おそらく天才兵法家ではないかとおもわれる。
 春秋時代は占いによって開戦か否かを決するので、戦法、戦術の幅が狭い。
 が、春秋前期にあっては普の「士会」が、中期にあっては「苗賁皇」が兵法においてすぐれている。
 後期になってついに、呉に「孫子」、すなわち孫武があらわれるのである。




 馬陵の戦い
 中国の戦国時代は、文字通り戦いに明け暮れていた時代である。
 無数にある大小の戦いのなかで、もっとも劇的であるのが、
 「馬陵の戦い」
である、といっても、異論を唱える人はさほど多くはあるまい。
 馬陵の戦いは戦国時代の中期にあたる。
 後期にはいると、秦軍と趙軍が戦った「長平の戦い」がある。
 そこではなんと趙兵の40万が秦軍に降伏し、しかも全員生き埋めにされた、という。
 そういうすさまじい数の死者を、馬陵の戦いはもっていないにもかかわらず、史記の「孫子呉起列伝」を読んだ人は、馬陵の戦いに到って、おもわず息をのんだにちがいない。

 それは斉軍と魏軍の戦いでありながら、「孫濱と龐涓」という兵法の天才同士の知略の凌ぎ合いであり、かつ二人は同じ先生について兵法を学んだという過去をもち、さらに孫濱の才知を恐れた龐涓が、孫濱に罪を着せたにもかかわらず、刑罰によって足を失った孫濱が脱出し、復讐の機をうかがうという情念の葛藤を含み、ついに馬陵において爆発する怨讐の火が、龐涓にむかって飛ぶ一万本の矢として表現されるみごとさは、殺伐とした二国の戦いから昇華されたところにある。
 
 司馬遷が戦いの描写に優れているのは、彼自身が兵法にすくなからぬ興味をいだいていたせいでもあるが、それにしても馬陵の戦いに投入された詞華は、列伝のなかでもひときわ鮮やかである。

 それはそれとして、1972年に、中国の山東省で前漢初期の墓が発見され、そこから『孫濱兵法』があらわれたのである。
 その兵法書はむろん孫子として名高い兵法家の書物とはあきらかに違っていたので、『孫子』は春秋時代の後期に呉の将軍となった孫武によって書かれたものであると断定されることとなった。

 その『孫濱兵法』を読んで愕然とすることは、なんと孫濱が龐涓に勝ったのは馬陵の戦いではなく、「桂陵の戦い」である、ということである。
--孫子息(いこ)わずして之を桂陵に撃ち、龐涓をとりこにす。
 そのなかの一文はそうなっている。
 
 桂陵の地をまたは馬陵というのではないかと考える人がいるかもしれないが、それはこじつけであり、ふたつの地はやはりちがう。
 そうなると
 「馬陵の戦い」は実際にはなく、司馬遷の頭の中にだけあった戦い
なのであろうか。




【付:孫臏兵法wikipedia】

孫臏兵法

●1972年出土于山东省临沂市银雀山的《孙膑兵法》竹简,现藏于山东博物馆

 孫臏兵法(そんぴんへいほう)は紀元前4世紀頃の中国戦国時代の斉の武将 孫臏(孫ピン)が著したとされる兵法書。
 なお、過去においてはいわゆる『孫子』の兵法書について、孫武が著したものであるという説と孫臏が著したものであるという説が存在していたが、この『孫臏兵法』が発見されたため前者であることが現在ではほぼ確定している。

 1972年4月、中華人民共和国の山東省において、漢代の墓が二つ並んで発掘された。
 ただちに山東省博物館から来た専門家が検証した。 
 後に銀雀山漢墓と称されるようになるこの現場で発掘された、竹簡形式の多数の書物の中で竹簡孫子に『孫臏兵法』が発見された。
 書物と同時に発掘された古銭の形状、および同時に発掘された漢武帝元光元年歴譜から、年代がおおよそ紀元前134年~118年と推定された。

 『孫臏兵法』は竹簡440枚、全30篇にわかれている。
 原文においてはそのうち21篇に篇名が記されていた。 
詳しくは、金谷治訳注『孫臏兵法 もうひとつの孫子』(ちくま学芸文庫、2008年)




史記 東周列国 孫月賓(そんびん)と广龍涓(ほうけん)
http://www.youtube.com/watch?v=FIizf9FZ4Qg





2012年5月3日木曜日

:刺客列伝

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● 1999/11/01[1997/04]



刺客列伝
 史記の愛読者のなかには「列伝」を好む人が多いであろう。
 列伝は個人の伝記の集成であり、それだけに人間が躍動している。
 かってな推量かもしれないが、列伝のなかでも「刺客列伝」がもっとも人気が高いのではないか。
 刺客はいうもでもなく、暗殺者である。
 だが、彼らは金で雇われた者たちではない。
 
曹沫(そうかい):春秋時代
専諸(せんしょ):春秋時代
豫譲(よじょう):戦国時代
聶政(じょうせい):戦国時代
荊軻(けいか):戦国時代

 の五人は、たとえば豫譲がいったように
--士は己を知る者のために死す。
 という精神の風景をもった者たちばかりである。
 司馬遷は、

 太史公曰く
 曹沫より荊軻にいたるまでの五人は、その義はあるいは成就し、あるいは成就しなかった。
 しかし、すべてその意図は明らかで、その志をあざむかなかった。
 その名が後世に伝わったのか、決して無稽のことではない。

と、記している。

 荊軻は秦の始皇帝の暗殺に失敗し、始皇帝とその側近の者に斬り殺された。
 しかしながら、中国全土の人を恐れおののかす始皇帝を、敢然と刺しにいった荊軻の勇気に驚嘆しない者はなく、燕の国をはなれる荊軻を涙とともに見送る人々との別れを描いた
 「易水の別れ(えきすい)」
は、涙なしでは読めない名場面である。

 「易水にねぶか流るる寒さかな」
という蕪村の名句は、むろんその故事から取材されたもので、ねぶかの白と荊軻が身に着けていた白衣、白冠という喪服を重ねあわせてみれば、歴史という大河に流れ去った一片のねぶかの存在とはなんであったのか、おのずと明らかである。
 蕪村が中国の故事に関心があったことはあきらかで、そこから生まれた句の風景は超大さをもっている。
 「指南車を胡地に引き去る霞かな」
 ここに気の遠くなるような広大な天地が描かれており、雰囲気は漢の時代であるが、指南車という、車上の木像の仙人の手が常に南を指すといわれている車をつくったのは、黄帝である、、ということになっている。
 
 漢といえば、蕪村の句にこういうのもある。
 「畑うちや法三章の札のもと」
 漢の高祖が、秦の首都に軍をすすめたとき、秦のわずらわし法律を全廃し、殺人、傷害、盗み、だけを罰することにし、
--法は三章のみ。(史記「高祖本紀」
と、述べたことに材をとっている。
 むろん蕪村は史記のなかだけから句の主題をえらんだわけではない。
 それでもに史記は彼の境地を高め、広げたことに違いはなかろう。




 空前絶後の道
兵をはやく目的の地点に着かせるためには、まっすぐで幅の広い道路があれば、便利である。
兵車(戦車)が軍の主力であった春秋時代、軍が進むときは、工作兵が先行して、道を拓いた。
川があれば橋をかけた。
たとえば五万の軍がいれば、そのうち二万は工作兵である。
いや、その二万には輜重(軍事物資の輸送) の兵もふくまれるから、非戦闘員であるといったほうがよいかもしれない。

その春秋時代ににつづく戦国時代の中期に、趙の武霊王が北方の異民族との戦争では兵車がさほど有効でないことを認識し、直接に馬に乗ることを指導した。
このあたりから戦いの方が様変わりしたにちがいなく、騎兵と歩兵が軍の主力となったから、工作兵の数が軍全体でどのような比率になったのかはわからないが、とにかく変化はあったようである。
が、兵車がなくなったわけではない。
なんといっても、平原では兵車は威力を発揮する。
中国が秦の始皇帝に統一されたあと、国内における戦争はやむんだが、北方の異民族の侵入をふせぐ戦いは残っていた。

始皇帝は北境で異変があったとき、すぐに大群をそちらにむかわせることを考え、軍事用の直進道路の建設を思い立った。
かれは土木建築にその嗜好のすべてがあるといってよいほど、狂ったように宮殿を増産したが、ここでもその情熱が道路にそそがれた。
「数十乗の兵車が横にならんで直進できる道をつくれ」
と、命じた。
これはすさまじい。
現代におきかえると、四,五十台のタンク(戦車)が横一列に並んだ幅の道路とおもえばよいであろう。
実際に、始皇帝はそれをつくらせたのである。

約160メートルの幅をもつ道路が、北に向かってのびた。
史記にその記事を求めると、こうである。
--道を除(はら)い、九原より雲陽に抵(いた)る。山を塹(ほ)り谷を埋め、直にこれを通す。
九原から雲陽まで地図上の直線距離でも600キロを超えている。
空前絶後の高速道路である。
つくったのは武将の蒙恬である。
この道路はいまは埋没してあとかたもないようであるが、数十キロ程度は残っていると雑誌でよんだことがる。
秦帝国が潰えたたら、道も消えたということであろう。
道はその次代の血管かもしれない。




● 中国古典文学大系より



【付】

始皇帝 -勇壮なる闘い-
http://www.youtube.com/watch?v=_wopxABlzZ0&feature=related




「大秦帝国」予告
http://www.youtube.com/watch?v=U8tkza1Rb08






[ ふみどころ:2012 ]



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2012年5月2日水曜日

:司馬遷の復讐

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● 1999/11/01[1997/04]



 みことのり
 秦は、
--命を制と為し、天子みずからを称して朕と曰ん。(秦始皇帝本紀)
ということを行った。
 命とは、令と口の合字で、たがいに通じるものの、令は小事についてのみことのりであり。命は大事についてのみことのりである。
 また、これまで庶民も自分のことを「朕(ちん)」と言っていたのだが、これ以後は天子のみが自分のことを朕という。
 そういうきまりができた。

 日本では天子のみことのりを「詔勅」ともいう。
 勅は、中国の古代では農機具を清めるための儀礼のことであったが、唐代において進化の任命を勅というようになり、日本にその用法が輸入された。
 ただし、ニアンスが違い、日本の「詔」は大事に使われ、「勅」は小事につかわれる。



 死の習俗
 喪服といえば黒を思いうかべるのがq日本人であるが、古代中国における喪服の色は「白」であった。
 人の死についても、よびかたがさまざまあり、古代の習俗について多くが載せられている。
 礼記によると、
 天子が死去することを「崩:ほう」といい、
 諸侯は「薨:こう」といい、
 太夫(小領主)は「卒:しゅつ」といい。
 士は「不禄:ふろく(禄は当て字)」といい、
 庶民が「死」という。
 ちなみに鳥類の死は「降:こう」といい、獣の死は「漬:し」という。

 父母などを亡くした人は、喪に服するわけであるが、その期間はふつう3年といわれている。
 これは足掛け3年のことで、正確には25ケ月である。



 暦のはじめ
 正しい暦をつくることは、どの王朝も悩みのタネであった。
 暦の正しさが、その王朝の正統性を高めることにつながる、といっても過言ではない。

 史記の「五帝本紀」にしたがって暦に関することがらをみると、まず、黄帝の時代には、
 「五気を治める」
ということが行われた。
 五気とは、「五行の気」ということで、「木・火・土・金・水」という宇宙を構成する要素を季節に当てはめたということであろう。
 ただし、五行の研究と黄帝の事績の検索は、戦国時代に斉の国で盛んに行われたことで、たとえば戦国時代より前の主従時代には黄帝の名が文献に現れないことを考えれば、その信憑性を多少割り引いて考えたほうがよいかもしれない。

 黄帝からはるかに時代が下がって堯帝があらわれる。
 ここではじめて暦がつくられる。
 暦の作成を堯より命じられたのは、義仲(義は当て字)と和仲のふたりである。
 そのあたりについて史記は、
--義仲に命じ、敬みてコウ天に順い、日月星辰を数え法り、敬みて民に時を授けしむ。
  ---
--歳三百六十六日、閏月をもって四時を正す。
と、書いている。

 一年を366日とするというのが、紀元前2000年以前の堯帝の時代に定められたというのである。
 ところでその文ににある「数法」という語が、「暦数」につながるのである。
 しかも、1年を366日にすると過不足が生じるので、閏月を置くというのもここで認識されている。

 帝堯から位を譲られた帝舜には、
 「璿璣玉衡(せんきぎよくこう)」
と呼ばれる天体観測機があったらしい。
 つまり帝舜は暦数を自身でにぎり、進化にそれをまかせなかった。
 帝舜のもとには名臣がずらりとならんでいたが、暦の数法をかれらにさずけた記事は書経にもみあたらない。
 けっきょく帝舜は臣下のなかから帝禹をえらんで後継者とした。
 暦の数法をさずけたのは、そのときであろう。
 禹は夏王朝の始祖となる。
 夏王朝の暦を夏暦という。 
 日本の陰暦のもとになったのが、じつはその夏暦である。

 孔子は周王朝のよさを強調した人であるが、
 「暦は周暦より夏暦のほうがよい」
と、いった。
 実際、いまの日本でも陰暦で仕事を行っている人が少なからずいる。
 自然のリズムにあっているということだろう。
 陽暦は日数をあわせるために、頭でつくった暦という感じがしないでもない。

● 和漢三才図会 巻第十五より


 新年の吉凶
 「史記」のなかに、天文学書というべき、「天官書」がある。
 そのなかに天候を占う名人である魏鮮が、正月の朝に吹く風によって、その年の吉凶をどのように占ったかが記述されている。
 科学的根拠はさておいて、古代人がなにを感じ、なにを予想したのか、順をおって書き写してみる。

●風は八方から吹くものと考える。
●南風がやってくると、大きな旱害がある。
●西南風がやってくると、小さな旱害がある。
●西風ならば、戦争がある。
●西北風ならば、大豆がよく実る。
●小雨であれば、兵が出動する。
●北風であれば、穀物の実りは中くらいである。
●東北風があると、豊作である。
●東風があると、洪水がある。
●東南風が吹けば、民間に疫病があって、不作の歳になる。

 以上、八風による占いであるが、どうやら吉の風は北から吹いてくるものであるらしい。
 西北風、北風、東北風はいずれも吉である。
 風は商王朝のころから大いに意識されている。
 東西南北をつかさどる神を「方神」という。
 その神々の使者が「風神」である。

 また、史記の「天官書」には、正月の占いとして、
 人の声を聞く、
というものがある。
 正月の元旦のひざしが明るいときに、大都や町の人民の声を聞いてみる。
 その声が「宮音(きゅうおん)」であれば、その年は良い。
 中国には「五音」というものがあり、それは

 宮、
 商、
 角、
 徴(ち)、
 羽(う)

と、よばれる。

 『中国の音楽世界(孫玄例齢著、岩波新書)』によると、その五音とは、「ドレミソラ」にあたるという。
 それなら「宮音」は「ド」である。
 人民の声が、商(レ)に聞こえると、戦争がある。
 徴(ソ)なら旱害があり、
 羽(ラ)なら水害があり、
 角(ミ)なら、その年は悪い。

 音楽をやっている人に、元旦の人の声はどのように聞こえましたか、と聞いてみたらどうであろうか。



 高祖黄帝
 遠い昔のはじまりは、いったい誰が語り伝えたのであろう。
 史記には二千年以上の歴史が書かれているが、その巻頭は黄帝からである。
 黄帝は春秋時代にはあらわれない帝号であり、ちなみに論語には、黄帝よりあとの堯帝や舜帝はあっても、やはり黄帝はない。
 ということは、黄帝の存在は春秋時代のあとに想像されたのであろう。
 おもしろいことに、戦国時代の斉の国王であった威王の発言が祭器にきざまれて残っており、そこには、
 「高祖黄帝」
の文字がみえる。
 それはいわゆる金文であるから同時史料であり、田氏(陳氏)の大昔の先祖が黄帝であると明言したことにまちがいはない。

 春秋時代の人々が知らなかった黄帝を斉の高祖であるといったことは威王以前に斉において古代研究がさかんになり、
--堯や舜の前の帝王は、だれなのか。
 と、問討され、神話や説話が集められ、黄帝の存在が浮かび上がってきたと考えられる。
 したがって黄帝は想像力だけで生み出された帝王ではないかもしれない。
 人々がその存在を信じ、王室が認定するにいたるには、あきらかな根拠が必要である。

 史記にかかれている黄帝の実績は、斉で行われた研究の一部であろう。
 それが全部残っていれば、中国の神話と伝説はみごとな大系をそなえていたであろう。
 が、残念ながら、中国のそれはギリシャ神話にははるかにおよばない。



 司馬遷の復讐
 歴史というものは、かならず不公平がある。
 人のいとなみそれ自体が不公平をそなえているからである。
 中国の古代についていえば司馬遷の史記を抜きにして語ることはできない。
 だが、史記の記述が古代の実相のすべてにおよんでいるとは言い切れない。

 司馬遷という人は正義感の強い人であったようだ。
 その正義感が李陵の事件に発揮され、還ってわざわいをこうむった。
 李陵は司馬遷の僚友といっていい。
 漢の武帝が李陵に八百の騎馬を与えたところ、李陵は敵地である匈奴の地をニ千余里も侵入して還ってきた。
 その勇気をめでて、武帝は五千の歩兵を李陵にあたのである。
 李陵はその兵を鍛えて強兵にしたあと、武帝に出撃のゆるしを請い、匈奴征服をおこなった。
 ところが匈奴はその五千の兵を八万の兵で包囲したのである。
 さすがの李陵も力つきて、匈奴に降伏した。
 その行為を武帝への裏切りではないと信じた司馬遷は、李陵を弁護したのである。
 が、やがて李陵が匈奴の将となったことがわかり、激怒した武帝によって、李陵の母や妻子は処刑され、司馬遷も宮刑に処せられた。
 このときから司馬遷の正義感は、おもてにはあらわれず、自分のてがけている『史記』のなかにこもったにちがいない。
 
 「列伝」の冒頭をかざっているのは、「伯夷列伝」である。
 史実というよりむしろ神話に属するような話を、個人の伝記にあたる「列伝」のはじめにもってきた司馬遷の意(おも)いの哀しさとすさまじさは、読むものの胸を激しく打たずにはおかない。
 「列伝」の第二は「管晏列伝」であることも中尉をようする。
 司馬遷は『老子』や『孫子』などを愛読していたらしいのに、老子の伝は第三に、孫子の伝は第五にまわしている。
 神話からのがれた歴史上の人物として、管仲と晏嬰の伝記を筆頭にもってきたにはやはり、司馬遷なりの必然があったとみるべきである。
 
 管仲と晏嬰は、いうまでもなく春秋時代に活躍した斉の国の名宰相である。
 だが司馬遷はそれをいいたかったわけではない。
 管仲は斉の桓公に敵対し、命まで狙ったのに、ゆるされて宰相の地位にひきあげられた。
 一方、晏嬰は斉の荘公に憎まれ太夫の席を逐われたのに、荘公が殺されると、敵兵のただなかを単身ですすみ、荘公のなきがらをいたわった。

 この二つの説話に、漢の武帝と自身の関係を投影したかったのであろう。
 もっといえば、寛容力にかけた武帝は、司馬遷の『史記』によって、復讐されたのである。

 


[ ふみどころ:2012 ]



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2012年5月1日火曜日

★ 史記の風景:宮城谷昌光

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● 1999/11/01[1997/04] 



 人知の宝庫

 司馬遷の『史記』は、紀元前90年ころに完成された大歴史書である。
 そのころ書かれたものが残り、その記述が後世に伝わったということは世界的にいってもたいへんめずらしいのに、その内容たるや、まさに人知の宝庫といってよい。

 およそ130篇の大著である。
 文字数は52万6500であると司馬遷自身が書いている。

 構成は「本紀」「書」「表」「世家」「列伝」となっている。
 「本紀」には各王朝の盛衰が書かれている。
 「書」は文化史といえるが、司馬遷の歴史評論集である。
 この部分は著者の広汎な知識とするどい分析力が必要であり、のちの歴史家ではとても手に負えないジャンルとして、はぶかれるようになった。
 「表」は年表だとおもえばよい。
 「世家」は諸侯の事績が中心であるが、たとえば孔子のように、君主になったわけではないが思想家で大家をなした傑俊は、そのなかで一巻を与えられている。
 「列伝」はむかしからもっとも人気の高いジャンルで、天下に名をあらわした個人の伝記である。

 そのように「本紀」と「列伝」が組み合わさった歴史書の構成を「紀伝体」といい、むろん司馬遷の発明であり、のちの歴史家はそのスタイルを踏襲することになった。
 『史記』の第一巻は「五帝本紀」であり
--黄帝は少典の子なり。姓は公孫、名は軒轅という。
という記述からはじまる。

 黄帝という太古の聖王が君臨していた時代から、司馬遷が生きていた前漢(西漢)王朝の武帝の時代まで、いったい何年になるのか。
 二千年はゆうにこえるであろう。
 司馬遷が生きていたころ、日本では、弥生時代の中期にあたる。
 日本の歴史がこれから始まろうとするころに、中国ではその歴史が集大成されるということも、驚異にあたいする。

 とにかく、『史記』のはかには汲めども尽きない叡智がたたえられていて、古代中国の人々の生き方や考え方、それに発明、発見、習慣など、日本に影響をあたえたこともすくなくなく、あらためて知れば、現代人としても大いに興味をそそられることが多い。
 事件や人物をぬきにして古代を語ることはできないが、それらはなるべく脇において、『史記』に現われた語句を基準にして、古代中国をさぐってゆくことにする。
 





 漢の文帝

 わたしは35歳から『史記』を正面にすえて読み始めた。
 それから16年が経とうとしているが、まだ全巻読みつくしていない。
 そのかわりといっては何であるが、おなじ文を5回、10回と読んでいる。
 頼山陽は『日本外史』を書くにあたり、史記の項羽と劉邦の戦いのところを開いたままにして執筆をつづけたといわれる。
 それに近いことをわたしもする。
 司馬遷の気息にふれて、気分が高揚するせいであろう。
 たとえば史記のなかの人物は、はげしく喜び、はげしく怒る。
 大いに哀しみ、大いに楽しむ。
 そういう感情の起伏の大きさはじつは人間の原点にあったものであろうし、そこからかけはなれたところにいる現代人が、史記をを読むことによって、人であることに回帰し、やすらぎを得るにのではあるまいか。

 わたしは「本紀」を中心にして年表を作ってきた。
 いま漢の景帝の時代で、その作業はとまっている。
 高祖(劉邦)、恵帝、呂后、文帝と本紀の内容は豊かであったのに、文帝の子の景帝になると、貧弱になる。
 司馬遷が仕えた武帝については、何も書かれていないといってよい。
 景帝と武帝についての記事は、やはり削除されたとおもわざるをえない。
 それはまことに残念なことである。
 が、文帝に書かれた「孝文本紀」がそこなわれなかったことはありがたい。

 黄帝から聖王や名君が続々と登場するが、史記における最後の聖王は、この文帝である。
 文帝は堯帝のように何もしないで天下をよく治めたという人ではなく、失政があり誤謬もおかした。
 しかしこの皇帝の聴政には人の温かさがかよっており、皇帝としてできるかぎり全身全霊で行ったというのが、文帝ではなかったか。
 障害を緊張のなかにおき、ついに頽弛をみせなかったというのは、みごとというほかない。
 人民はいちどでよいから税金のない世をすごしてみたいと願う。
 願うだけでけっして実現するはずがないとあきらめている。

 ところが、この文帝は、農民にだけであるが、
--田の租税を除け。
 と、およそどの皇帝も行ったことのない租税撤廃をおこなった。
 みずからけっして奢らず、夫人には裾を引きずるような衣服を許さず、人臣のために心身をささげぬいた文帝を、司馬遷は「太史公曰く」のなかで、
--嗚呼豈に仁ならずや。
 と、ほめちぎっている。
 『史記』の風景のなかでもっとも高いところにいる人主とは、文帝である、という考えは、いまもかわらない。






 あとがき

 古代中国の人、文物、習俗などについて、司馬遷の『史記』から題材ををとり、書いてみようと思ったのは、4年前のことである。
 産経新聞(大阪)から、その種の執筆を誘われた。
 それゆえこの稿に自発的にとりかかったわけではなく、連載の話が持ち込まれたとき、
--勉強のためにやってみよう。
と、おもったというのが事実に近い。
 中国の古代史を専門にしている学者を器用せずに、不正確な知識しか持ちあわせていないわたしにそういうものを書かせようと意図はわからぬでもない。
 学者によっては正確を期するあまり、あれはちがう、これは誤りである、というように文全体が否定形になりやすく、紙面が冷える。
 ところが小説家は一種無責任な立場から、想像や空想をひろげる。
 そのあたりを新聞の責任として、筆者が妄想に固執しないように、また読者をまどわせないように、制御しつつ、読者に小さなおどろきをともなった夢をあたえようとしたのであろう。

 連載をはじめてみて、すぐに自分の浅学を痛感した。
 この種のものは広汎な知識を必要とする。
 もちろん連載を続けるために勉強しつづければよいのであるが、知ったことをすぐにかけば、
--小人の学は、耳より入りて、口より出づ。
と、荀子に笑われるであろう。
 知ったことがほんとうに自分のものになるのかは、心身にゆきわたる時を必要とする。
 そういう時をもたぬ言葉は、読者への浸潤を失うことがわかっているだけに、忙中にある自分が苦痛であった。
 新聞の連載は一年余で終わったが、ほっとすると同時に、中途半端な感じをいだいた。
 そのため新潮社に、おなじスタイルで書かせてもらえないだろうか、とたのんだ。
 『波』の誌面を頒けてくれた。
 苦痛が続くのを承知で、書き始めた。
 勉強というよりは挑戦という気分になった。
 その連載が二年つづいた。
 ふたつの連載をあわせてようやく本になる。
 出版に際して新潮社出版部に世話になった。

 1997年3月吉日       著者





式部ふみどころ:2012

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