2012年6月23日土曜日

★ はなれ瞽女おりん:水上勉

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● 1986/05/25[1980/12/25]



 はなれ瞽女おりんのことを書く。

 その前に、瞽女のこと、ならびに「はなれ瞽女」という呼び名について説明しておく。
 瞽女とは一口に言って、「盲目の女旅芸人」のことをいう。
 彼女たちは、仲間をつくって一定の住居に集団生活をなし、時期を決めて旅に出る。
 ゆく先は、諸方にある瞽女宿であるが、そこで寝泊まりするのに、持参した三味線を奏で、瞽女唄といわれる説教節に似た語りもの、時には時事小唄、その痴呆の古謡などをうたって、あつまった老若男女を楽しませ、また時には、問われるままにつたえて、秋から冬春にかけての長い一夜をすごすのである。
 時に吹雪にでもなれば、二、三泊させてもらって、また次の村落の瞽女宿をめざしてゆく、といった遊芸の放浪者とでも呼びそうな女たちのことを、日本海辺に育った者は、「瞽女」とよんできた。

 私は同じ日本海辺でも福井県の西端の若狭生まれであるが、幼少時の冬春に、眼のつぶれた女が、三、四人つれだって荷を背負い、三味線を手にして、これも半眼つぶれた手引き女に導かれて、村へきたのを憶えている。
 もっとも、この瞽女は、越前か、加賀か、越後かその住居をもっていて、福井県の端まで遊芸に来たものかどうか、詳細は知らない。

 彼女たちは、村に来ると、はずれの阿弥陀堂といって、わが部落では葬式の時にしか使わない破れた古堂に泊り、一夜あけると63戸の家々を門付けして廻った。
 戸口でお経だか、物語だか、子どもにはさっぱりわからぬ、流暢な流し文句を、低声で唄い、三味線をひくものはひき、唄うものは唄いして、何かしらの包み金、あるいは茶碗一、二杯のコメをもらうと、次の家の戸口へ歩いて行った。
 もちろん、唄う女も三味線をひく女も全盲である。
 足元が見えないから、前にたつ手引き女の肩に手をのばし、一人がつづくと、そのあとをまた同じように手を先の背につかえて、ならんでゆくさまは、奇妙な「乞食さん」に思え、どこまでもついて廻った日の思い出が鮮やかにである。

 「乞食さん」と書いたが、私たちの部落では、たいした大百姓もいなかったので、血縁のない他人を家に泊め、一夜にしろ食事をめぐむといった余裕のある家はなかった。
 ととえば、托鉢にくる雲水をみてさえ「乞食」がきたと子供らはふれ歩いたし、霊場めぐりの白かたびらを着た「遍路さん」をみても、「乞食さん」といった。
 とにかく、家の戸口に立って、ありがたい経文を唱えようが、米塩を乞うて生きる以上は、「物乞い」とさげすんだ。
 瞽女もまた、その物乞いの一組であった。
 だが、この一行は、一寸先の見えないめくらであったことと、仲間がみな、同じかたちの荷を背負い、同じかたちの瞽女笠とよばれる丸笠の、白布をまいたあご紐をかけ結び、手垢で光った細杖をつき、いつもうつむいていたことなどから、印象も深かったのだろうと思われる。

 ついでにいっておくが、物乞いの中で、子どもにもっとも恐れられたのは「山伏」であった。
 この男は、鈴のついた錫杖をつき、長髪をたらし、先の尖った帽子をかぶり、何枚かの着物を重ね着し、そのうえ熊野権現だとか立山権現だとか書いた袖なし羽織を着、腰には巨大なほら貝をつるし、丸餅ほどある大きなたまの数珠を臍のあたりまでたらし、戸口に立てばボーウッポーッとほら貝をならし、何やらわけのわからぬ呪文を唱えると、米か包み金をわたすまでは、金輪際うごかなかった。
 村じゅうの嫌われ者で、この男がくると、63戸の家は、大戸をしめて鍵をかけた。
 そのような荒々しい物乞いに比べると、巡礼姿ではあるが、どことなく、おとなしくて、手びき女にひかれていく瞽女の一行は、子ども心にも哀れに思えた。

 瞽女には、それぞれ一座があって、遠い越後にはその座をあずかる親方の家があり、時期を決めて旅へ出てゆく、ということを聞いたのは、ずいぶんのちのことで、子どもだった頃の瞽女への考えと、いまの考えは多少食い違っている。
 しかし、越後の瞽女が、なぜに若狭あたりまできたものか。
 のちに、越後瞽女の人とも会って、そのような遠出をなされたことがあったかと、訊ねてみたことがあるが、越前、若狭は汽車で通ったことはあるが、めったに門付けなどしたことはないとの返事だった。
 すると、私がみたあの瞽女姿の女は、越後のそれでなくて、丹波か丹後あたりの瞽女であったか。
 いまそのところをはっきり説明してくれる人はいない。
 が、部落の阿弥陀堂は、いつの年も、冬になると、そのような盲目の旅芸人が火を焚いて寝泊まりしていた。
 雪が積もって道が歩きにくければ、十日も二十日もうごかないこともあった’。
 時には、一人ぽっちで、杖をたよりにやってくるめくら女もいた。

 だから、わが部落につたわる「阿弥陀の前」という盆行事の一つに、子どもらと大人が、八月十四日の宵、堂前の丹羽でかけあう文句に
 「阿弥陀の前になにやら光る、瞽女の眼が光る」
 「兄嫁、瞽女の眼が光る、眼が光る」
 「向かいの山に竿さしわたす」
 「先はじょじょむけ、もとしゃぐま」
 「向かいの山に土ふんどしゃさがる」
 「廻れば間(あい)の遠さよ、間の遠さよ」
というような唄が、江戸時代からうけつがれ、今日うたわれているのをみても、瞽女は我が部落の住人と何らかのかかわりをもっていたものと思われる。

 阿弥陀の前に瞽女の眼が光るといったのは、江戸時代の昔から、堂内に、めくらの女が寝泊まりしてきた証しだろう。
 わけのわからない伝承行事に参加したときの経験から、そう解釈しているのである。
 わが村を門付けして歩いた瞽女たちは、瞽女宿を提供する家などなかったために、無人の破れ堂を、区長さんに頼んで、一夜の宿にしてもらったか。
 そういえば、瞽女だけでなく、例の山伏も泊まっている。
 葬式にしか使わない村外れの堂を、荒れるままに放置しておいたのも、そのような物乞いの宿として暗黙裡に常時提供しておいたものか。
 しかし、このことはあくまでも私の想像であって、いずれにしても、北陸一円には、たとえ大戸をしめて一握りの米さえ呉れてやろうとせぬ山伏にさえも、泊めてやる宿をつくっておく心があった。
 旅芸人や物乞いに、あたたかい親切をつくした人びとはいたのである。

 古老のはなしに、瞽女の親子が堂にこもったまま冬を越し、春が来て親が病気になったので、村人総出で子をたすけ、米と味噌をもちよって看護にあたった。
 が、その甲斐もなく親が死亡すると、葬式をしてやり、遺体はさんまい谷に埋め、墓は菩提寺の無縁塚におさめた、という。
 そののち、瞽女の子はその親の霊を弔うために、丈六の地蔵菩薩を建立して、それは今日も残っている。
 御影石の台石に、
 「六十六部供養塚 親の菩提の為の之を建つ 亨保六年辛丑 恵休」
と彫字がよめる。
 盲目の親瞽女について手びき娘が、恵休という名で、旅先の部落に地蔵を寄進して立ち去ったとみてよいのだが、古老はこの恵休が、二年ばかり、堂に住んで、経を読み、村の子に針仕事を教えたのち立ち去ったという。

 話はそれてしまったが、本題にもどると、瞽女たちは、このようにして、つまり旅の途中で死亡した親をまつり、のち孤独の身を、あてどない旅にあずけて去ってゆくといったのもいたようだ。
 が、健全な瞽女というと妙だが、根拠地に住んで、ある時期だけ旅して歩くといった、瞽女本来の生活を頑固に守り続けたのは、今日も残っている越後瞽女であろうか。
 越後は若狭などに比べると大国で、豊穣な米穀地帯である。
 高田や長岡の藩主は、早くから盲の女たちに、座をつくらせ、「瞽女屋敷」なるものを認めたと文書にみえる。
 米穀にゆとりのあった国柄だろう。
 高田、長岡だけにとどまらず、越後各地の農村へゆくと、地蔵草や阿弥陀堂を中心に盲女組織があり、柏崎、寺泊などに近年まで二組の瞽女もいた。
 越後新井に在住の文化財調査官市川信次氏の調べによると、高田瞽女は慶長19年高田開封とともに定着し、寛永元年松平光長が越前から高田へ移った時、川口御坊という者が瞽女を統率したと記録にあるそうだ。
 23人の盲女がいたと伝えられる。
 今日も残る高田瞽女はその名残りである。

 瞽女仲間の掟によると、親方は家を持つことが条件で、家のない者には資格がなかった。
 親方はまた「座」をつくり、座には頭がいて、座元になった。
 座元は仲間うちで、修行の年数の長い者がなり、年齢には関係がなかったという。
 親方たちはつまり、そんな互助機関をもちながら屋敷の戸主として、盲目の幼い女をあずかって瞽女に育てたのである。
修行は、三味線をひくこと、語り文句をおぼえること、盲人としての日常礼儀作法、旅の際の作法心得などである。
 高田には、多い時は17人もの親方がいて、各仲間は、それぞれの組みをつくっていた。
 瞽女は、幼い自分に修行に入るのを尊ばれた。
 六、七歳だと芸事を教えてもよく覚えからで、十七、八歳からはおぼえも悪く長続きしなかった。
 時には目あき、半眼あきの者もきて、手びきになったが、目あきはいつ出てゆくかわからない不安があったので盲女に比べて出世は遅れたといわれている。

 またこの瞽女には位階があった。
 最初仲間に入った時に、本名を捨てて、芸名をもらった。
 これは親方がつけた。
 二年経つと「三年目の祝い」というのがあり、親方がその日は赤飯をたいて同輩にも喰わせた。
 七年目に「名替え」がきた。
 出世名をもらう日である。
 たとえば、「さと」という芸名出あったら「うたさと」というふうに、「うた」とか「ちよ」とかいう冠名がつけ足されたのである。
 それから一年たつと、つまり弟子入り八年目に「姉さん」とよばれる資格がもらえた。
 さらに三年たつと、「年季明け」といって、はじめて一人前の「姉さん」になれた。
 この年まわりに、親方が老い込んでいた場合は、弟子をとってもよいことになった。
 だが、正当な「弟子とり」はそれから、三年たたぬとできなかった。
 江戸時代は、弟子入り15年目に「中老」という位を決めていたそうだが、明治以後はその位はなくなっている。
 ざあっと、こんな段階で盲女たちは修行をつとめたわけである。

 市川氏の記録から高田瞽女が年間、どのような暦で、家を出、旅したか、そのあらましを引き写してみる。

(一).正月
 正月は行事が多く、六日年越、七日七草、十一日倉びらき、十五日鏡びらき、二十日弁天講、二十九日組合総会があった。
 瞽女は弁財天を守り神としたので、正月の弁天講まで飾り物をはずさず、あずき飯をたいて供えている。
 また、組合総会は、座元の家で、親方たちが集まる日で、その年の巡回の先、日取りをとりきめるのが主な目的であった。
 弟子たちは、まる一ヶ月、家にいて、三味線の啓子をしたり、町を門付けして歩いた。
(二).冬の旅
 2月3日から2月21日 まで行う。
 農繁期を待っての旅ともいえるが、直江津、柿崎などの海岸地帯からはじめられた。
 海に近いほうが温かかったからかもしれない。
 各地に元庄屋、または富裕な家が瞽女宿として待っていた。
(三).やぶ入り
 2月22日から28日まで、生家に帰って父母と面会した。
 親のない者は家にとどまって稽古ごとをしていた。
(四).春の旅
 3月3日から5月12日まで、2月にゆけなかった村々へ出かけた。
(五).妙音講
 5月13日に、高田寺町三丁目にある曹洞宗天林寺の弁財天の前で歌奉納があった。
 一年に一回の祭りのようなもので、年相応に装いを飾って、つまりおしゃれして出かけた。
 本堂にゆくと、和尚が瞽女式目を読み、それがすむと、自慢ののどをきかせる歌奉納、御馳走も酒もあった。
(六).5月20日から12月27日まで
 県内各地、さらに信州まで巡回して、時々、帰宅した。
 12月27日が最終日となる。
 この日に帰宅していないと罰金をとられた。

 365日、ぎっしり旅行と行事でつまっていたとみてよい。

 高田藩が盲女に旅の鑑札をあたえ、座を認めて保護した理由はなんであったかつまびらかではないが、一種の福祉事業であったかもしれない。
 つまり、よるべのない薄幸な女たちに集団旅行の権利をあたえ、物乞いさせて、自立させたのである。
 芸事をよくした盲女らが山間部の百姓の唯一の娯楽機関の役目を果たしたという点にも、またこの制度の目的があったかもしれない。
 いずれにせよ、瞽女の親方のところへ弟子入りしてくる娘はあとをたたず、多い時は17戸の親方がいたとすると、ずいぶんな人数だったろう。

 どこの国でも生まれながらの盲女はいた。
 幼時に患ったがもとで全盲になった者もいた。
 それらの盲女たちが、貧家ゆえ、口減らしのために家出を余儀なくされ、よるべない闇の人生を、血縁のない親方の教えを守って、一人前の瞽女に育つかというと、なかには年頃に、性への渇仰をおぼえて男と交わり、子をなしたり、あるいは、遊女に堕ちてゆくといったケースも多かったと記録は述べている。
 途中で、瞽女仲間から離れていった盲女の数は無数である。
 掟や躾がきびしく、修行に嫌気が’さす者もいて不思議でない。
 また、「名替え」を終えて「弟子とり」に迫る年頃でも、旅でゆきずりあった男にだまされて、一夜の喜びを知り、折角の苦労も水泡に仲間を捨て去った女もいたという。
 瞽女には、自立上、掟を破ったものに刑罰をあたえた。
 すなわち、男と交わった者は仲間はずれとなし、どのような辺境の旅の途中でも脱落させた。

 世に
 「はぐれ瞽女」「はなれ瞽女」「落とし瞽女」
などといった呼び名でよばれる盲女は、この種の女のことで、仲間からはずされると、諸方の親切な瞽女宿に泊まることは許されず、村外れの地蔵堂や阿弥陀堂をねぐらとして、もう一つの孤独な旅をつづけたとみてよい。
 この物語の主人公はおりんは、つまりそのような仲間はずれの瞽女であって、彼女はある時は、道でゆきずりにあった孤児や男を手びきとして、ある時は、手びきなしで、北陸一円を旅した。
 長い前置きになった。

 章をあらためて、おりんの話にもどる。

(注).第一章全文。






 瞽女のNHKドキメンタリーがあった。
 紹介部分だけであった。

瞽女さんの唄が聞こえる
http://www.youtube.com/watch?v=HkK7X8fkjyA&feature=related



 以下、「瞽女唄」。

ごぜうた


20110212瞽女ライブ 0001


越後瞽女唄鑑賞会(2010.10.2)

NiigataBBTV さんが 2010/10/26 にアップロード
新潟ブロードバンドテレビhttp://niigata-bb.tv/dt-2010/index.htm
小須戸の町屋の歴史と瞽女唄の迫力ある唄を体で感じてもらおうと新潟市秋葉区で10月2日、越後瞽女唄の鑑賞会が開かれました。この鑑賞会は、小須戸小学校区コミニティ協­議会が主催したものです。(制作協力・新潟アナウンススクールhttp://ameblo.jp/niigata-anaschool/)






[ ふみどころ:2012 ]




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