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● 2011/04/10[2008/02]
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ここ近年、おとなの振る舞いがおかしい。
本来であれば多くの人の範となるべき立場の人物が、妙な振る舞いをするのが目立つ。
これまで何度か、旅行会社の勤務時代の「怖い先輩」から教わった戒めを書いた。
「ひとが負うべき責任には、法的責任と道義的責任のふたつがある」
怖い先輩は、ことあるごとにこれを口にされた。
「法律というのは、人間が後知恵を考えだすことだ。
世の中の動きが早くなれば、法律は追いつけなくなる。
だから法律には、幾つも穴ができる」
これが先輩の持論だった。
「道義は、後知恵で作った法律よりもはるかに大きな存在だ。
法律でカバーしきれない穴を、しっかりとふさぐのが道義だ」
たとえ法律ではセーフだとしても、道義に照らしておかしいと感じたら、そのことに手を出すな。
怖い先輩から、毎日のようにこれを言われた。
「添乗員が果たすべき使命はなにか言ってみろ」
こう問われたとき、わたしは幾つもの応えをあげた。
顧客に満足してもらえるサービスの提供のうんぬんと。
答えるたびに、先輩にあたまをこぶしでどやされた。
「添乗員の使命は、出発時に元気だったお客様を、元気なままで旅から連れて帰ってくることだ」
添乗員の不注意で、もしもお客様が発病したり、怪我を負ったりしたら。
そうなったあとでは、取り返しがつかない。
不注意を責めて添乗員をクビにしても、怪我も病気も治らない。
「元気なお客様を元気なままで出発地に連れて帰る。
これが添乗員の使命だ」
以前にも、わたしは同じ主旨のことを書いた。
あえてもう一度、怖い先輩の話をするのは、おとなのおかしな振る舞いが目にあまるからだ。
言葉の解釈は、時代とともに変化するという。
「情けは人のためならず」
この意味は、
「人に示す情けは、めぐりめぐって、いつかはわが身を助けてくれる」
と、わたしは教わった。
ところが今はその解釈が違う。
「余計な手助けは、その者のためにならない」と。
これをしたり顔で言う者が、驚くほど増えている。
社会的に高い地位にいるものが、おのれに都合よく法律を解釈する。
制度を都合よくつまみ食いして、本来の目的とは違う適用を図る。
世の中に影響力の強いおとなが、こんなことを臆面もなくやってのける。
「情けはひとのためにならない」と、本気で考える者が増える道理だ。
とはいえ、いやなことばかりではない。
長男が通う中学の同級生一家が火事に遭った。
父親はこどもの命を救おうとして猛火の中に飛び込んだ。
子どもの生命は救えた。
が、父親は集中治療室に運びこまれた。
家は全焼した。
「こんなとき、一番有益な助けになるのはおカネだ。
教科書だの衣類だのは、あとでどうにでもなる。
必要な助けは、まずおカネだ」
学校の諸先生は、こう判断された。
そして生徒に募金を呼びかけた。
「一口千円でいい。
だれが幾ら募金したかは、一切明かさない。
大事なことは、すぐに行動すること」
見事な、感服すべきおとなの判断である。
治療を受けている父親の無事を願いつつ、生徒たちはできる範囲の募金をする。
尋常ならざる事態に遭遇したとき、ひとはなにをすべきか。
その大事な教訓を、先生方は生徒に示された。
娘の学校であれば、どれほどの時間が過ぎようとも、言葉の意味は変わらない。
「情けはひとのためならず」
美しい箴言である。
』
[ ふみどころ:2012 ]
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