2012年6月21日木曜日

:おとなのおかしな振る舞いが目にあまる

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● 2011/04/10[2008/02]



 ここ近年、おとなの振る舞いがおかしい。
 本来であれば多くの人の範となるべき立場の人物が、妙な振る舞いをするのが目立つ。

 これまで何度か、旅行会社の勤務時代の「怖い先輩」から教わった戒めを書いた。
 「ひとが負うべき責任には、法的責任と道義的責任のふたつがある」
 怖い先輩は、ことあるごとにこれを口にされた。
 「法律というのは、人間が後知恵を考えだすことだ。
 世の中の動きが早くなれば、法律は追いつけなくなる。
 だから法律には、幾つも穴ができる」
 これが先輩の持論だった。
 「道義は、後知恵で作った法律よりもはるかに大きな存在だ。
 法律でカバーしきれない穴を、しっかりとふさぐのが道義だ」
 たとえ法律ではセーフだとしても、道義に照らしておかしいと感じたら、そのことに手を出すな。
 怖い先輩から、毎日のようにこれを言われた。

 「添乗員が果たすべき使命はなにか言ってみろ」
 こう問われたとき、わたしは幾つもの応えをあげた。
 顧客に満足してもらえるサービスの提供のうんぬんと。
 答えるたびに、先輩にあたまをこぶしでどやされた。
 「添乗員の使命は、出発時に元気だったお客様を、元気なままで旅から連れて帰ってくることだ」
 添乗員の不注意で、もしもお客様が発病したり、怪我を負ったりしたら。
 そうなったあとでは、取り返しがつかない。
 不注意を責めて添乗員をクビにしても、怪我も病気も治らない。
 「元気なお客様を元気なままで出発地に連れて帰る。
 これが添乗員の使命だ」
 以前にも、わたしは同じ主旨のことを書いた。
 あえてもう一度、怖い先輩の話をするのは、おとなのおかしな振る舞いが目にあまるからだ。

 言葉の解釈は、時代とともに変化するという。
 「情けは人のためならず」
 この意味は、
 「人に示す情けは、めぐりめぐって、いつかはわが身を助けてくれる」
と、わたしは教わった。
 ところが今はその解釈が違う。
 「余計な手助けは、その者のためにならない」と。
 これをしたり顔で言う者が、驚くほど増えている。
 
 社会的に高い地位にいるものが、おのれに都合よく法律を解釈する。
 制度を都合よくつまみ食いして、本来の目的とは違う適用を図る。
 世の中に影響力の強いおとなが、こんなことを臆面もなくやってのける。
 「情けはひとのためにならない」と、本気で考える者が増える道理だ。

 とはいえ、いやなことばかりではない。
 長男が通う中学の同級生一家が火事に遭った。
 父親はこどもの命を救おうとして猛火の中に飛び込んだ。
 子どもの生命は救えた。
 が、父親は集中治療室に運びこまれた。
 家は全焼した。

 「こんなとき、一番有益な助けになるのはおカネだ。
 教科書だの衣類だのは、あとでどうにでもなる。
 必要な助けは、まずおカネだ」
 学校の諸先生は、こう判断された。
 そして生徒に募金を呼びかけた。
 「一口千円でいい。
 だれが幾ら募金したかは、一切明かさない。
 大事なことは、すぐに行動すること」
 見事な、感服すべきおとなの判断である。
 治療を受けている父親の無事を願いつつ、生徒たちはできる範囲の募金をする。

 尋常ならざる事態に遭遇したとき、ひとはなにをすべきか。
 その大事な教訓を、先生方は生徒に示された。
 娘の学校であれば、どれほどの時間が過ぎようとも、言葉の意味は変わらない。
 「情けはひとのためならず」
 美しい箴言である。




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