_
● 2002/10/30
『
はじめに(抜粋)
幸田露伴(1876--1947)の名前を初めて知ったのは、旧制中学の2年生のときの教科書であったはずである。
今から考えると、そこに掲載されていたのは『長語』のなかの一話であった。
初めて露伴を読んだときの印象はかんばしいものではなかった。
言い回しが難しく、ピンとこなかった。
たとえば、露伴は「沈黙の徳」を教えるに「宗廟そもそも何を語って人あえてけがさざるや」というような言い方をする。
これが「沈黙は尊い」ということを言おうとしていることはわかるのだが、その例として先祖の墓を引き合いに出す理由がわからなかった。
こういう回りくどさ、とっつきにくさを感じ、そのときより露伴に傾倒することはなかった。
ところが大学3年になり、再び露伴と相対することになる。
教育学の神藤克彦先生のお宅に遊びに行ったことがきっかけであった。
神藤先生は同じキャンパス内にお住まいになっていたこともあって、学生たちはしばしば訪問させていただいた。
ご自身も気さくな方であり、学生が来ればいつでも「まあ上がれ」といって話し相手となってくださった。
いつものように遊びにうかがって話をしているとき、たまたま幸田露伴の話が出たのである。
そのとき、第一印象の悪さもあって露伴の熱心な読者ではなかったし、小説にしても『五重塔』を読んでいるといった程度であった。
神藤先生は
「それは君ね、露伴はなんといったって『努力論』だよ。
それから『修省論(しゅうせいろん)』がいい」
と熱心にお話になるのである。
そういわれるのならと、さっそく神田に行って『努力論』を購入し、読んでみることにした。
一読してみて、「これは !」という感じがあった。
「これこそ一生座右に置ける本だ」と直感した。
それからのち、『努力論』を座右に置いて、数え切れないほど読み返すこととなった。
少なくとも五十になる頃までは、一、二年に一度は必ず読み返していた。
そして、何度読んでも裏切られることはなかった。
この本がなかりせば、物の観察の仕方にせよ、考え方にせよ、随分自分が違っていただろうなと思うほど強い影響を受けることになったのである。
そういう経緯があり、今度は私が学生たちに『努力論』を読むように勧めることになった。
ところが『努力論』は長らく絶版となっており、手に入らない。
また、古書店や図書館でようやく見つけて読んでみても、わからないという学生が大半であった。
私たちは旧制中学ですでに漢文を学んでいたし、私自身は小学校の時から読み始め、大学までずっと漢文をやっていた。
今の学生にしてみれば英語やドイツ語よりも難しいと感じるのま無理はない。
ならばと私は『努力論』を翻訳してみることにした。
翻訳してみてわかったことは、露伴の文体は今の翻訳に乗りにくいということである。
非常に豊富な語彙を持っている露伴は、同じ事を別の漢語をつかって畳みかけるように書く。
原文を読むと、それが魅力になっているのだが、翻訳してしまうと同じ事の繰り返しにすぎないのである。
だから非常に訳しずらい。
それでも、そういう重複を省いて翻訳したこともある。
(『人生、報われる生き方 幸田露伴「努力論」を読む』三笠書房)
露伴の『努力論』と『修省論』、とくに『努力論』は私のあたまの一部になった本である。
それゆえに、なるべく多くの方に読んでいただきたいと思っている。
そういう気持ちで、講演のときなども「惜福・分福・植福(せきふく・ぶんぷく・植福)」の話を取り上げたりしている。
これらの経験を踏まえて思ったのは、むしろ緻密な翻訳といった世界から離れて、露伴の言葉のなかから私が気に入ったものを選び、その真意が伝わるように前後の物語などは適度に割愛しながら私流に訳し、そこに現代的な例を付け加えるような形にして紹介してはどうかということである。
そのほうがむしろ、露伴の意に沿えるのではないかという考えに至った。
教養の大系がすっかり変わってしまった今、このような方法でもとらなければ、露伴のエッセンスを伝えることはできないのではないか。
何よりも大切なのは伝えることであるから、そのために一番いい方法をとるのがいいという気持ちになったのである。
<<略>>
我々は残念ながら露伴に会うことはできない。
しかし、長年露伴を読んできて、多少なりとも露伴のことがわかったような気がするのである。
そして、理解したところの露伴をわかりやすい言葉で、なるべき多くの読者に伝えたいと思うのである。
「露伴を後世に伝える」こと、
これはまさに露伴の言うところの植福なのではないだろうか。
そういう思いも私にはあるのである。
』
[ ふみどころ:2012 ]
__