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● 2002/10/30
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いくら立派な教えであっても、教えられる立場からすれば、どのように学べばいいかというきっかけを与えてもらいたいものである。
それがわからなければ、学ぼうにも学びようがない。
ところが、現実には教えの崇高なることをは感じられるものの、その教えのどこから手をつければいいのかということが分からない者も少なくない。
時間が経過して振り返ると、
「あのとき自分がそれを理解できるところまで到達できていなかった」
と、気づくこともある。
それにしても、そのときに、
「どこから手をつければいいのかを教えてくれなくては勉強のしようがない」
と思うのは常であり、
「せっかく教えてもらったけど、何も実らないまま終わってしまった」
ということはよくあることである。
ある少年のこんな話がある。
彼は非常に難易度の高い学校に入学したのだが、学校の授業では数学がまったく理解できなかった。
先生に質問しても、どうも要領を得ない。
そこで、有名塾の数学の講師に聞いたところ、その講師は、
「この問題はここがポイントだ」
と、その場で明快に答えてくれた。
それからあとは、その類似問題をみると、どこから手をつけていいのかがすぐに分かるようになったという。
大学の英文科でも、できる学生は必ずいい先生について
「こういう文章はどこから手をつければいい」
ということをしっかり聞いて学んでいる。
そいう質問を学生がしてきたときに、文法があやふやな先生だと、こまかなところにウエイトをおいて、重要なところが抜けてしまうことがり、役に立たない。
苦労をして文法を身につけて、しかもよくわかった先生だと、そこがピタリとはまるのである。
つまり、
「どこから手をつければいいのか」
という問いを発し、それに明快に答えてくれる教師を選ぶことが人生に余分な回り道をせず、自分の目指すものを無駄なく実現するためのコツということができる。
』
[ ふみどころ:2012 ]
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