2012年6月23日土曜日

★ はなれ瞽女おりん:水上勉

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● 1986/05/25[1980/12/25]



 はなれ瞽女おりんのことを書く。

 その前に、瞽女のこと、ならびに「はなれ瞽女」という呼び名について説明しておく。
 瞽女とは一口に言って、「盲目の女旅芸人」のことをいう。
 彼女たちは、仲間をつくって一定の住居に集団生活をなし、時期を決めて旅に出る。
 ゆく先は、諸方にある瞽女宿であるが、そこで寝泊まりするのに、持参した三味線を奏で、瞽女唄といわれる説教節に似た語りもの、時には時事小唄、その痴呆の古謡などをうたって、あつまった老若男女を楽しませ、また時には、問われるままにつたえて、秋から冬春にかけての長い一夜をすごすのである。
 時に吹雪にでもなれば、二、三泊させてもらって、また次の村落の瞽女宿をめざしてゆく、といった遊芸の放浪者とでも呼びそうな女たちのことを、日本海辺に育った者は、「瞽女」とよんできた。

 私は同じ日本海辺でも福井県の西端の若狭生まれであるが、幼少時の冬春に、眼のつぶれた女が、三、四人つれだって荷を背負い、三味線を手にして、これも半眼つぶれた手引き女に導かれて、村へきたのを憶えている。
 もっとも、この瞽女は、越前か、加賀か、越後かその住居をもっていて、福井県の端まで遊芸に来たものかどうか、詳細は知らない。

 彼女たちは、村に来ると、はずれの阿弥陀堂といって、わが部落では葬式の時にしか使わない破れた古堂に泊り、一夜あけると63戸の家々を門付けして廻った。
 戸口でお経だか、物語だか、子どもにはさっぱりわからぬ、流暢な流し文句を、低声で唄い、三味線をひくものはひき、唄うものは唄いして、何かしらの包み金、あるいは茶碗一、二杯のコメをもらうと、次の家の戸口へ歩いて行った。
 もちろん、唄う女も三味線をひく女も全盲である。
 足元が見えないから、前にたつ手引き女の肩に手をのばし、一人がつづくと、そのあとをまた同じように手を先の背につかえて、ならんでゆくさまは、奇妙な「乞食さん」に思え、どこまでもついて廻った日の思い出が鮮やかにである。

 「乞食さん」と書いたが、私たちの部落では、たいした大百姓もいなかったので、血縁のない他人を家に泊め、一夜にしろ食事をめぐむといった余裕のある家はなかった。
 ととえば、托鉢にくる雲水をみてさえ「乞食」がきたと子供らはふれ歩いたし、霊場めぐりの白かたびらを着た「遍路さん」をみても、「乞食さん」といった。
 とにかく、家の戸口に立って、ありがたい経文を唱えようが、米塩を乞うて生きる以上は、「物乞い」とさげすんだ。
 瞽女もまた、その物乞いの一組であった。
 だが、この一行は、一寸先の見えないめくらであったことと、仲間がみな、同じかたちの荷を背負い、同じかたちの瞽女笠とよばれる丸笠の、白布をまいたあご紐をかけ結び、手垢で光った細杖をつき、いつもうつむいていたことなどから、印象も深かったのだろうと思われる。

 ついでにいっておくが、物乞いの中で、子どもにもっとも恐れられたのは「山伏」であった。
 この男は、鈴のついた錫杖をつき、長髪をたらし、先の尖った帽子をかぶり、何枚かの着物を重ね着し、そのうえ熊野権現だとか立山権現だとか書いた袖なし羽織を着、腰には巨大なほら貝をつるし、丸餅ほどある大きなたまの数珠を臍のあたりまでたらし、戸口に立てばボーウッポーッとほら貝をならし、何やらわけのわからぬ呪文を唱えると、米か包み金をわたすまでは、金輪際うごかなかった。
 村じゅうの嫌われ者で、この男がくると、63戸の家は、大戸をしめて鍵をかけた。
 そのような荒々しい物乞いに比べると、巡礼姿ではあるが、どことなく、おとなしくて、手びき女にひかれていく瞽女の一行は、子ども心にも哀れに思えた。

 瞽女には、それぞれ一座があって、遠い越後にはその座をあずかる親方の家があり、時期を決めて旅へ出てゆく、ということを聞いたのは、ずいぶんのちのことで、子どもだった頃の瞽女への考えと、いまの考えは多少食い違っている。
 しかし、越後の瞽女が、なぜに若狭あたりまできたものか。
 のちに、越後瞽女の人とも会って、そのような遠出をなされたことがあったかと、訊ねてみたことがあるが、越前、若狭は汽車で通ったことはあるが、めったに門付けなどしたことはないとの返事だった。
 すると、私がみたあの瞽女姿の女は、越後のそれでなくて、丹波か丹後あたりの瞽女であったか。
 いまそのところをはっきり説明してくれる人はいない。
 が、部落の阿弥陀堂は、いつの年も、冬になると、そのような盲目の旅芸人が火を焚いて寝泊まりしていた。
 雪が積もって道が歩きにくければ、十日も二十日もうごかないこともあった’。
 時には、一人ぽっちで、杖をたよりにやってくるめくら女もいた。

 だから、わが部落につたわる「阿弥陀の前」という盆行事の一つに、子どもらと大人が、八月十四日の宵、堂前の丹羽でかけあう文句に
 「阿弥陀の前になにやら光る、瞽女の眼が光る」
 「兄嫁、瞽女の眼が光る、眼が光る」
 「向かいの山に竿さしわたす」
 「先はじょじょむけ、もとしゃぐま」
 「向かいの山に土ふんどしゃさがる」
 「廻れば間(あい)の遠さよ、間の遠さよ」
というような唄が、江戸時代からうけつがれ、今日うたわれているのをみても、瞽女は我が部落の住人と何らかのかかわりをもっていたものと思われる。

 阿弥陀の前に瞽女の眼が光るといったのは、江戸時代の昔から、堂内に、めくらの女が寝泊まりしてきた証しだろう。
 わけのわからない伝承行事に参加したときの経験から、そう解釈しているのである。
 わが村を門付けして歩いた瞽女たちは、瞽女宿を提供する家などなかったために、無人の破れ堂を、区長さんに頼んで、一夜の宿にしてもらったか。
 そういえば、瞽女だけでなく、例の山伏も泊まっている。
 葬式にしか使わない村外れの堂を、荒れるままに放置しておいたのも、そのような物乞いの宿として暗黙裡に常時提供しておいたものか。
 しかし、このことはあくまでも私の想像であって、いずれにしても、北陸一円には、たとえ大戸をしめて一握りの米さえ呉れてやろうとせぬ山伏にさえも、泊めてやる宿をつくっておく心があった。
 旅芸人や物乞いに、あたたかい親切をつくした人びとはいたのである。

 古老のはなしに、瞽女の親子が堂にこもったまま冬を越し、春が来て親が病気になったので、村人総出で子をたすけ、米と味噌をもちよって看護にあたった。
 が、その甲斐もなく親が死亡すると、葬式をしてやり、遺体はさんまい谷に埋め、墓は菩提寺の無縁塚におさめた、という。
 そののち、瞽女の子はその親の霊を弔うために、丈六の地蔵菩薩を建立して、それは今日も残っている。
 御影石の台石に、
 「六十六部供養塚 親の菩提の為の之を建つ 亨保六年辛丑 恵休」
と彫字がよめる。
 盲目の親瞽女について手びき娘が、恵休という名で、旅先の部落に地蔵を寄進して立ち去ったとみてよいのだが、古老はこの恵休が、二年ばかり、堂に住んで、経を読み、村の子に針仕事を教えたのち立ち去ったという。

 話はそれてしまったが、本題にもどると、瞽女たちは、このようにして、つまり旅の途中で死亡した親をまつり、のち孤独の身を、あてどない旅にあずけて去ってゆくといったのもいたようだ。
 が、健全な瞽女というと妙だが、根拠地に住んで、ある時期だけ旅して歩くといった、瞽女本来の生活を頑固に守り続けたのは、今日も残っている越後瞽女であろうか。
 越後は若狭などに比べると大国で、豊穣な米穀地帯である。
 高田や長岡の藩主は、早くから盲の女たちに、座をつくらせ、「瞽女屋敷」なるものを認めたと文書にみえる。
 米穀にゆとりのあった国柄だろう。
 高田、長岡だけにとどまらず、越後各地の農村へゆくと、地蔵草や阿弥陀堂を中心に盲女組織があり、柏崎、寺泊などに近年まで二組の瞽女もいた。
 越後新井に在住の文化財調査官市川信次氏の調べによると、高田瞽女は慶長19年高田開封とともに定着し、寛永元年松平光長が越前から高田へ移った時、川口御坊という者が瞽女を統率したと記録にあるそうだ。
 23人の盲女がいたと伝えられる。
 今日も残る高田瞽女はその名残りである。

 瞽女仲間の掟によると、親方は家を持つことが条件で、家のない者には資格がなかった。
 親方はまた「座」をつくり、座には頭がいて、座元になった。
 座元は仲間うちで、修行の年数の長い者がなり、年齢には関係がなかったという。
 親方たちはつまり、そんな互助機関をもちながら屋敷の戸主として、盲目の幼い女をあずかって瞽女に育てたのである。
修行は、三味線をひくこと、語り文句をおぼえること、盲人としての日常礼儀作法、旅の際の作法心得などである。
 高田には、多い時は17人もの親方がいて、各仲間は、それぞれの組みをつくっていた。
 瞽女は、幼い自分に修行に入るのを尊ばれた。
 六、七歳だと芸事を教えてもよく覚えからで、十七、八歳からはおぼえも悪く長続きしなかった。
 時には目あき、半眼あきの者もきて、手びきになったが、目あきはいつ出てゆくかわからない不安があったので盲女に比べて出世は遅れたといわれている。

 またこの瞽女には位階があった。
 最初仲間に入った時に、本名を捨てて、芸名をもらった。
 これは親方がつけた。
 二年経つと「三年目の祝い」というのがあり、親方がその日は赤飯をたいて同輩にも喰わせた。
 七年目に「名替え」がきた。
 出世名をもらう日である。
 たとえば、「さと」という芸名出あったら「うたさと」というふうに、「うた」とか「ちよ」とかいう冠名がつけ足されたのである。
 それから一年たつと、つまり弟子入り八年目に「姉さん」とよばれる資格がもらえた。
 さらに三年たつと、「年季明け」といって、はじめて一人前の「姉さん」になれた。
 この年まわりに、親方が老い込んでいた場合は、弟子をとってもよいことになった。
 だが、正当な「弟子とり」はそれから、三年たたぬとできなかった。
 江戸時代は、弟子入り15年目に「中老」という位を決めていたそうだが、明治以後はその位はなくなっている。
 ざあっと、こんな段階で盲女たちは修行をつとめたわけである。

 市川氏の記録から高田瞽女が年間、どのような暦で、家を出、旅したか、そのあらましを引き写してみる。

(一).正月
 正月は行事が多く、六日年越、七日七草、十一日倉びらき、十五日鏡びらき、二十日弁天講、二十九日組合総会があった。
 瞽女は弁財天を守り神としたので、正月の弁天講まで飾り物をはずさず、あずき飯をたいて供えている。
 また、組合総会は、座元の家で、親方たちが集まる日で、その年の巡回の先、日取りをとりきめるのが主な目的であった。
 弟子たちは、まる一ヶ月、家にいて、三味線の啓子をしたり、町を門付けして歩いた。
(二).冬の旅
 2月3日から2月21日 まで行う。
 農繁期を待っての旅ともいえるが、直江津、柿崎などの海岸地帯からはじめられた。
 海に近いほうが温かかったからかもしれない。
 各地に元庄屋、または富裕な家が瞽女宿として待っていた。
(三).やぶ入り
 2月22日から28日まで、生家に帰って父母と面会した。
 親のない者は家にとどまって稽古ごとをしていた。
(四).春の旅
 3月3日から5月12日まで、2月にゆけなかった村々へ出かけた。
(五).妙音講
 5月13日に、高田寺町三丁目にある曹洞宗天林寺の弁財天の前で歌奉納があった。
 一年に一回の祭りのようなもので、年相応に装いを飾って、つまりおしゃれして出かけた。
 本堂にゆくと、和尚が瞽女式目を読み、それがすむと、自慢ののどをきかせる歌奉納、御馳走も酒もあった。
(六).5月20日から12月27日まで
 県内各地、さらに信州まで巡回して、時々、帰宅した。
 12月27日が最終日となる。
 この日に帰宅していないと罰金をとられた。

 365日、ぎっしり旅行と行事でつまっていたとみてよい。

 高田藩が盲女に旅の鑑札をあたえ、座を認めて保護した理由はなんであったかつまびらかではないが、一種の福祉事業であったかもしれない。
 つまり、よるべのない薄幸な女たちに集団旅行の権利をあたえ、物乞いさせて、自立させたのである。
 芸事をよくした盲女らが山間部の百姓の唯一の娯楽機関の役目を果たしたという点にも、またこの制度の目的があったかもしれない。
 いずれにせよ、瞽女の親方のところへ弟子入りしてくる娘はあとをたたず、多い時は17戸の親方がいたとすると、ずいぶんな人数だったろう。

 どこの国でも生まれながらの盲女はいた。
 幼時に患ったがもとで全盲になった者もいた。
 それらの盲女たちが、貧家ゆえ、口減らしのために家出を余儀なくされ、よるべない闇の人生を、血縁のない親方の教えを守って、一人前の瞽女に育つかというと、なかには年頃に、性への渇仰をおぼえて男と交わり、子をなしたり、あるいは、遊女に堕ちてゆくといったケースも多かったと記録は述べている。
 途中で、瞽女仲間から離れていった盲女の数は無数である。
 掟や躾がきびしく、修行に嫌気が’さす者もいて不思議でない。
 また、「名替え」を終えて「弟子とり」に迫る年頃でも、旅でゆきずりあった男にだまされて、一夜の喜びを知り、折角の苦労も水泡に仲間を捨て去った女もいたという。
 瞽女には、自立上、掟を破ったものに刑罰をあたえた。
 すなわち、男と交わった者は仲間はずれとなし、どのような辺境の旅の途中でも脱落させた。

 世に
 「はぐれ瞽女」「はなれ瞽女」「落とし瞽女」
などといった呼び名でよばれる盲女は、この種の女のことで、仲間からはずされると、諸方の親切な瞽女宿に泊まることは許されず、村外れの地蔵堂や阿弥陀堂をねぐらとして、もう一つの孤独な旅をつづけたとみてよい。
 この物語の主人公はおりんは、つまりそのような仲間はずれの瞽女であって、彼女はある時は、道でゆきずりにあった孤児や男を手びきとして、ある時は、手びきなしで、北陸一円を旅した。
 長い前置きになった。

 章をあらためて、おりんの話にもどる。

(注).第一章全文。






 瞽女のNHKドキメンタリーがあった。
 紹介部分だけであった。

瞽女さんの唄が聞こえる
http://www.youtube.com/watch?v=HkK7X8fkjyA&feature=related



 以下、「瞽女唄」。

ごぜうた


20110212瞽女ライブ 0001


越後瞽女唄鑑賞会(2010.10.2)

NiigataBBTV さんが 2010/10/26 にアップロード
新潟ブロードバンドテレビhttp://niigata-bb.tv/dt-2010/index.htm
小須戸の町屋の歴史と瞽女唄の迫力ある唄を体で感じてもらおうと新潟市秋葉区で10月2日、越後瞽女唄の鑑賞会が開かれました。この鑑賞会は、小須戸小学校区コミニティ協­議会が主催したものです。(制作協力・新潟アナウンススクールhttp://ameblo.jp/niigata-anaschool/)






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2012年6月22日金曜日

:感謝をこめて

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● 2011/04/10[2008/02]



 感謝をこめて

 『にこにこ貧乏』の前身、『おらんくの池』の第一回掲載は、週刊文春2002年6月6日号である。
 生まれて初めて書いた週刊誌随筆は、「鯨の話」で始まった。
  今年(2006年)の6月1日から、これも生まれて初めての『新聞小説』が始まった。
 
 初の新聞小説は、ぜひとも郷里の高知新聞からはじめたい‥‥
 長らく願っていたことが、うれしくも実現した。
 物語の舞台には、土佐と江戸、それに伊勢神宮の三カ所を選んだ。
 江戸時代には、諸国から伊勢神宮に参詣する『伊勢講』が大流行した。
 江戸からも土佐からも、お伊勢参りは一世一代の大事だった時代である。
 どんな道中になるかを描く、ロードムービー小説を目指して書き進めている。
 
 物語の中で、『鯨組(くじらぐみ)』を描くことになった。
 高知・室戸岬では、寛永年間から古式捕鯨が行われていた。
 新聞小説スタートから30日が過ぎた、7月1日。
 古式捕鯨の詳細が知りたくて、室戸市を訪れた。
 
 「古式捕鯨の話になったら、ついつい時間を忘れます」
 室戸市で写真館を営む多田運氏は、まさしく古式捕鯨の生き字引。
 鯨獲りの詳細を話しはじめると、温和な顔にいきなり朱がさした。
 『鯨組』という組織の実態も、多田氏にご教示いただいた。
 いまでいう捕鯨会社のことだが、江戸時代の室戸には、2つの鯨組が組織されて’いた。
 
 「浜に男児が誕生したら、その子のには生涯、一日あたり一升の扶持米が鯨組から支給されちょりました」
 鯨組の浜に生まれた男児は、長じたのちは鯨組に属する。
 男児誕生祝いの扶持米は、いわば報酬の前払いのようなものだ。
 鯨一頭を仕留めれば、七浦が潤ったという。
 室戸には二つあった『津呂組』『浮津組』の鯨組と、その浜の住民は、鯨に挑みつつも、鯨と共生していた。

 写真館を営む多田氏は、膨大な古式捕鯨の資料の多くをカラー写真に複写されていた。
 どの一葉をとっても、物語を書き進めるうえでは、特級資料である。
 ぜひにもコピーをとお願いしたら、
 「この資料で物語がおもしろうなるなら、どうぞお持ちください」と。
 せめて実費を払わせてほしいと頼んでも、頑として拒まれた。
 『土佐のいごっそう』は、一度口にしたことは、溶けた鉛を身体に流し込まれても、二度と引っ込めない。
 こどもの自分に聞かされた「おとな言い分」を、多田氏に接して思い出した。
 わたしにも、いごっそうの血は流れている。
 「物語がおもしろくなるなら」と多田氏に」言われたことを全力で果たすだけである。

 ゆえにいまは、鯨に夢中になっている次第である。









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2012年6月21日木曜日

:おとなのおかしな振る舞いが目にあまる

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● 2011/04/10[2008/02]



 ここ近年、おとなの振る舞いがおかしい。
 本来であれば多くの人の範となるべき立場の人物が、妙な振る舞いをするのが目立つ。

 これまで何度か、旅行会社の勤務時代の「怖い先輩」から教わった戒めを書いた。
 「ひとが負うべき責任には、法的責任と道義的責任のふたつがある」
 怖い先輩は、ことあるごとにこれを口にされた。
 「法律というのは、人間が後知恵を考えだすことだ。
 世の中の動きが早くなれば、法律は追いつけなくなる。
 だから法律には、幾つも穴ができる」
 これが先輩の持論だった。
 「道義は、後知恵で作った法律よりもはるかに大きな存在だ。
 法律でカバーしきれない穴を、しっかりとふさぐのが道義だ」
 たとえ法律ではセーフだとしても、道義に照らしておかしいと感じたら、そのことに手を出すな。
 怖い先輩から、毎日のようにこれを言われた。

 「添乗員が果たすべき使命はなにか言ってみろ」
 こう問われたとき、わたしは幾つもの応えをあげた。
 顧客に満足してもらえるサービスの提供のうんぬんと。
 答えるたびに、先輩にあたまをこぶしでどやされた。
 「添乗員の使命は、出発時に元気だったお客様を、元気なままで旅から連れて帰ってくることだ」
 添乗員の不注意で、もしもお客様が発病したり、怪我を負ったりしたら。
 そうなったあとでは、取り返しがつかない。
 不注意を責めて添乗員をクビにしても、怪我も病気も治らない。
 「元気なお客様を元気なままで出発地に連れて帰る。
 これが添乗員の使命だ」
 以前にも、わたしは同じ主旨のことを書いた。
 あえてもう一度、怖い先輩の話をするのは、おとなのおかしな振る舞いが目にあまるからだ。

 言葉の解釈は、時代とともに変化するという。
 「情けは人のためならず」
 この意味は、
 「人に示す情けは、めぐりめぐって、いつかはわが身を助けてくれる」
と、わたしは教わった。
 ところが今はその解釈が違う。
 「余計な手助けは、その者のためにならない」と。
 これをしたり顔で言う者が、驚くほど増えている。
 
 社会的に高い地位にいるものが、おのれに都合よく法律を解釈する。
 制度を都合よくつまみ食いして、本来の目的とは違う適用を図る。
 世の中に影響力の強いおとなが、こんなことを臆面もなくやってのける。
 「情けはひとのためにならない」と、本気で考える者が増える道理だ。

 とはいえ、いやなことばかりではない。
 長男が通う中学の同級生一家が火事に遭った。
 父親はこどもの命を救おうとして猛火の中に飛び込んだ。
 子どもの生命は救えた。
 が、父親は集中治療室に運びこまれた。
 家は全焼した。

 「こんなとき、一番有益な助けになるのはおカネだ。
 教科書だの衣類だのは、あとでどうにでもなる。
 必要な助けは、まずおカネだ」
 学校の諸先生は、こう判断された。
 そして生徒に募金を呼びかけた。
 「一口千円でいい。
 だれが幾ら募金したかは、一切明かさない。
 大事なことは、すぐに行動すること」
 見事な、感服すべきおとなの判断である。
 治療を受けている父親の無事を願いつつ、生徒たちはできる範囲の募金をする。

 尋常ならざる事態に遭遇したとき、ひとはなにをすべきか。
 その大事な教訓を、先生方は生徒に示された。
 娘の学校であれば、どれほどの時間が過ぎようとも、言葉の意味は変わらない。
 「情けはひとのためならず」
 美しい箴言である。




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:インターネット

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● 2011/04/10[2008/02]



 後世の21世紀研究者たちは、きっと
 『ひとつの区切り』
をつけると確信していることがある。
 『インターネット前』
 『インターネット後』
という区切りである。

 昭和23年(1948)生まれの私は、まことにいい時代を通り過ぎてきた。
 理由は、それ以前には存在していなかった文明の誕生の場に、いくつも出会ってきたからだ。
 たとえばテレビがそうだ。
 記憶が正しければ、郷里高知でテレビ放送の受信が可能となったのは、昭和34年(1959)4月の、皇太子時代のご成婚パレートのときだ。
 それ以前にも、高知の電器店にテレビは置いてあった。
 が、映っていたのは砂嵐。
 目を凝らすと、その砂嵐のなかに、かすかに映像らしきものが見えた。
 クラス仲間に、呉服屋のひとり息子、タケシがいた。
 タケシの家には、はっきりとは映像の映らないテレビが置いてあった。
 「なんぼ金持ちゆうても、あんな見えにくいもんを買うて、どうする気やろう」
 当時のテレビ一台の代金は、母子家庭だった我が家の年収を超えていた。
 「タケシの親は甘いきに、欲しいといわれたら、なんでも買いゆうがや」
 悪ガキどもは、陰でタケシを散々に言いながらも、砂嵐のなかのかすかな絵を見に出かけた。
 タケシの親が出してくれる生菓子が目当てだった。

 ある日突然、テレビがきれいな映像を映すようになった。
 高知市内の五台山にテレビ塔が建ち、本格的な放送が始まったからだ。
 砂嵐の画面が、映画館の銀幕同然に変わったときに受けた、あの衝撃。
 
 社会人になったあとも、数々の驚きを味わった。
 電話のダイヤルがプッシュボタンに変わった。
 プッシュホン以前は、番号の『1』が重宝がられた。
 ダイヤルが一番速く戻るから。
 プッシュホンでは『1』を重用する意味がなくなった。
 あれにも驚いたぜよ。
 初めてのファックスで。
 原稿そのものが、電話線の中を飛んでいくと思った人が、身近にいた。

 テレビもプッシュホンもファックスも、出現したことで世の中が劇的に変化し、暮らしぶりまで変わった。
 テレビは茶の間を映画館に変えた。
 フッシュホンは、電話機を「話す道具」という枠から解き放った。
 ファックスは情報のやりとりから、物理的距離を消滅させた。
 「原稿取り」のしごとを駆逐した、ともいえる。
 文明は、まさに日進月歩だ。
 こうしている間にも、新製品が開発されている。
 が、余に出てくる製品の多くは、いわば「改良品」である。
 概念すら存在しなかった製品の出現ではない。
 
 いい時代を過ごしてきたと書いた。
 そのわけは、世の多くの人が想像もしなかった「道なる文明の利器」の誕生に、幾つも居あわせてこられたからだ。
 インターネットは、いまの20代、30代の人が体験できた、数少ない「未知との遭遇」だと思う。
 この文明は、誕生してからまださほどに年月を経ていない。
 にもかかわらず、もはや「インターネット以前」の世には、戻れない。

 携帯電話は、ひとを饒舌にしたと思う。
 町を歩きながら、他人の耳があるところで、臆面もなく、声高に。
 電話機があれば話をするのは、ヒトという生物の性(さが)、かもしれない。

 インターネットは、ヒトの顕示欲を激しく刺激する、のだろう。
 発表の手段を得たときに、ヒトはいったい何をするのか、したのか。
 後世の格好の研究テーマとなる気がしてならない。







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2012年6月18日月曜日

★ くじら日和:山本一力

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● 2011/04/10[2008/02]



 藤沢周平さんにかかわる取材で、山形県鶴岡市を訪れた。
 藤沢さんが『海坂藩(うなさかはん)』として描かれている架空藩の元は、庄内藩である。
 藩主酒井家は現在も続いており、いまは酒井忠久氏が18代当主である。
 庄内藩は、古くから藩校『致道館(ちどうかん)』を構えていた。
 そして中国古典(漢文)の『素読』(大声を出して読む)を奨励した。

 その素読がいまも鶴岡市で生きていた。
 「論語抄がテキストです。
 期間は5月から10月までの毎月第二・第四土曜日で、午前八時から40分まで実施しています」
 酒井氏は気負いのない口調で、詳細を語ってくれた。
 酒井氏が館長の致道博物館で行われている素読は、鶴岡市内の小4から中3までの生徒が対象。
 夏休みの期間中の6日間は、午前5時40分から行うという。

 藩校『致道館』は、一般見学ができるようにいまも開放されている。
 火曜日に取材をしていたとき、致道館の一室から、こどもたちが論語を素読する声が聞こえてきた。
 全員が背筋を張って、きれいに正座している。
 わたしは取材中であることも忘れこどもたちの後ろ姿に見とれた。
 そののち、真似して最後列で正座をした。
 しかし、ものの5分と持たず、膝を崩す羽目になった。
 ところがこどもたちは見事に正座をつづけた。
 素読が終わったとき。足のしびれで動けないわたしを尻目に、24人の小学四年生が美しい所作で立ち上がった。
 この子たちには、言葉のすり替えなどの小賢しいことは通用しない‥‥。
 心底から感じた嬉しさで、しびれの痛みも消えた。
 藤沢周平さんの凛とした文章。
 鶴岡市をおとずれて、わけの一端を強く感じた。




[ ふみどころ:2012 ]




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2012年6月14日木曜日

:「どこから手をつければいいのか」を教えられる教師を選べ

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● 2002/10/30



 いくら立派な教えであっても、教えられる立場からすれば、どのように学べばいいかというきっかけを与えてもらいたいものである。
 それがわからなければ、学ぼうにも学びようがない。
 ところが、現実には教えの崇高なることをは感じられるものの、その教えのどこから手をつければいいのかということが分からない者も少なくない。

 時間が経過して振り返ると、
 「あのとき自分がそれを理解できるところまで到達できていなかった」
と、気づくこともある。
 それにしても、そのときに、
 「どこから手をつければいいのかを教えてくれなくては勉強のしようがない」
と思うのは常であり、
 「せっかく教えてもらったけど、何も実らないまま終わってしまった」
ということはよくあることである。

 ある少年のこんな話がある。
 彼は非常に難易度の高い学校に入学したのだが、学校の授業では数学がまったく理解できなかった。
 先生に質問しても、どうも要領を得ない。
 そこで、有名塾の数学の講師に聞いたところ、その講師は、
 「この問題はここがポイントだ」
と、その場で明快に答えてくれた。
 それからあとは、その類似問題をみると、どこから手をつけていいのかがすぐに分かるようになったという。

 大学の英文科でも、できる学生は必ずいい先生について
 「こういう文章はどこから手をつければいい」
ということをしっかり聞いて学んでいる。
 そいう質問を学生がしてきたときに、文法があやふやな先生だと、こまかなところにウエイトをおいて、重要なところが抜けてしまうことがり、役に立たない。
 苦労をして文法を身につけて、しかもよくわかった先生だと、そこがピタリとはまるのである。
 つまり、
 「どこから手をつければいいのか」
という問いを発し、それに明快に答えてくれる教師を選ぶことが人生に余分な回り道をせず、自分の目指すものを無駄なく実現するためのコツということができる。





[ ふみどころ:2012 ]




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:低きに合わせる教育は「粗」の人間を生み出す



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● 2002/10/30



 実用性の観点からみると、一番役に辰のは会話ができることである。
 それは確かなことなのだが、現在の語学学習は会話に重点を置くあまり、反動として文法をないがしろにしすぎる蛍光がある。
 今の英語の教科書でも、大半は英文法の項目を入れていない。
 その結果、まともな英語の書ける人がどんどん少なくなっている。
 買い物はできるが、正しい文章を書ける人がいなくなっている。
 これは、難しい本を性格に読める人が少なくなったという意味にもなる。

 文部科学省の方針は「低きに合わせる」という蛍光が強い。
 中世以降の西ヨーロッパ人がラテン語やギリシャ語を読むときに重視したのは、文法に基づいて徹底的に正確に読むことであった。
 それゆえに、彼らはプラトンもアリストテレスもキケロもセネカも身につけることができた。
 それができたことが西ヨーロッパの誕生につながった。
 これはイタリア語会話やギリシャ語会話ができるようになるとは全く次元の違う話である。

 日本が近代化に成功した理由のひとつも、非西洋世界の中で西洋の本を正確に読めた唯一の国であったということである。
 西洋と接触した有色人種の国はたくさんあるが、どの国も今の文部科学省が進めているような会話教育的なレベルで勉強が終わっていた。
 ところが日本は、西洋の一番難しい本を読むような努力をした。
 ゆえに日本にはカントの全集も、ゲーテの全集も、シェイクスピアの全集もある。
 それどころか、ヴァレリーのようなフランス本国にない全集まで揃っている。
 これはすべて、「正確に読む」ということから始まったことなのである。
 
 日本人の場合、つい最近まで外国と触れる機会がなかったため、条件反射としてする会話能力が足りないのは事実である。
 その欠点を補おうという文科省の考え方はわからなくもない。
 しかし、そこだけに目が行き過ぎて、語学教育の真の意義を見失うことは注意しなければならない。

 留学すると、日本人は必ずといっていいほど、自分の会話の下手なことに気づかされる。
 そのため、初めは先生から馬鹿みたいに思われることも少なくない。
 ところが、ひとたびレポートを書いて提出すると、先生の態度がガラリと変わるのがわかる。
 会話は下手だが、文法をしっかり学んでいるから文章は正確に書けるのである。
 アメリカ人の先生がいうに、会話が間違っていてもアメリカのような移民の多い国ではあまり気にならないが、文法の間違ったレポートは見る気がしない、という。
 
 日本人は、こうした事情を以外に知らないようである。
 ゆえに、「会話がうまくなるために」と外国に行く学生は多いが、そこで修士や学士まで取得できる学生は少ない。
 これは明らかに文法軽視の弊害である。
 会話を重視するあまり文法を粗雑にしてしまうと頭の粗雑な生徒が増えてくる恐れが多い。
 これは用意に看過できない事態である。

 一律に粗雑なことを教えているのであるから、そこに粗雑なあたまの人間が生まれてくるのは自明の理である。
 世の中の約に立たない人間を育てる教育というものがあっていいわけはない。





[ ふみどころ:2012 ]




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2012年6月13日水曜日

★ 幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法:渡辺昇一

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● 2002/10/30



 はじめに(抜粋)

 幸田露伴(1876--1947)の名前を初めて知ったのは、旧制中学の2年生のときの教科書であったはずである。
 今から考えると、そこに掲載されていたのは『長語』のなかの一話であった。

 初めて露伴を読んだときの印象はかんばしいものではなかった。
 言い回しが難しく、ピンとこなかった。
 たとえば、露伴は「沈黙の徳」を教えるに「宗廟そもそも何を語って人あえてけがさざるや」というような言い方をする。
 これが「沈黙は尊い」ということを言おうとしていることはわかるのだが、その例として先祖の墓を引き合いに出す理由がわからなかった。
 こういう回りくどさ、とっつきにくさを感じ、そのときより露伴に傾倒することはなかった。

 ところが大学3年になり、再び露伴と相対することになる。
 教育学の神藤克彦先生のお宅に遊びに行ったことがきっかけであった。
 神藤先生は同じキャンパス内にお住まいになっていたこともあって、学生たちはしばしば訪問させていただいた。
 ご自身も気さくな方であり、学生が来ればいつでも「まあ上がれ」といって話し相手となってくださった。
 いつものように遊びにうかがって話をしているとき、たまたま幸田露伴の話が出たのである。
 そのとき、第一印象の悪さもあって露伴の熱心な読者ではなかったし、小説にしても『五重塔』を読んでいるといった程度であった。
 神藤先生は
 「それは君ね、露伴はなんといったって『努力論』だよ。
 それから『修省論(しゅうせいろん)』がいい」
と熱心にお話になるのである。
 そういわれるのならと、さっそく神田に行って『努力論』を購入し、読んでみることにした。
 一読してみて、「これは !」という感じがあった。
 「これこそ一生座右に置ける本だ」と直感した。

 それからのち、『努力論』を座右に置いて、数え切れないほど読み返すこととなった。
 少なくとも五十になる頃までは、一、二年に一度は必ず読み返していた。
 そして、何度読んでも裏切られることはなかった。
 この本がなかりせば、物の観察の仕方にせよ、考え方にせよ、随分自分が違っていただろうなと思うほど強い影響を受けることになったのである。
 
 そういう経緯があり、今度は私が学生たちに『努力論』を読むように勧めることになった。
 ところが『努力論』は長らく絶版となっており、手に入らない。
 また、古書店や図書館でようやく見つけて読んでみても、わからないという学生が大半であった。
 私たちは旧制中学ですでに漢文を学んでいたし、私自身は小学校の時から読み始め、大学までずっと漢文をやっていた。
 今の学生にしてみれば英語やドイツ語よりも難しいと感じるのま無理はない。

 ならばと私は『努力論』を翻訳してみることにした。
 翻訳してみてわかったことは、露伴の文体は今の翻訳に乗りにくいということである。
 非常に豊富な語彙を持っている露伴は、同じ事を別の漢語をつかって畳みかけるように書く。
 原文を読むと、それが魅力になっているのだが、翻訳してしまうと同じ事の繰り返しにすぎないのである。
 だから非常に訳しずらい。
 それでも、そういう重複を省いて翻訳したこともある。
 (『人生、報われる生き方 幸田露伴「努力論」を読む』三笠書房)

 露伴の『努力論』と『修省論』、とくに『努力論』は私のあたまの一部になった本である。
 それゆえに、なるべく多くの方に読んでいただきたいと思っている。
 そういう気持ちで、講演のときなども「惜福・分福・植福(せきふく・ぶんぷく・植福)」の話を取り上げたりしている。
 これらの経験を踏まえて思ったのは、むしろ緻密な翻訳といった世界から離れて、露伴の言葉のなかから私が気に入ったものを選び、その真意が伝わるように前後の物語などは適度に割愛しながら私流に訳し、そこに現代的な例を付け加えるような形にして紹介してはどうかということである。
 そのほうがむしろ、露伴の意に沿えるのではないかという考えに至った。
 教養の大系がすっかり変わってしまった今、このような方法でもとらなければ、露伴のエッセンスを伝えることはできないのではないか。
 何よりも大切なのは伝えることであるから、そのために一番いい方法をとるのがいいという気持ちになったのである。
 
 <<略>>

 我々は残念ながら露伴に会うことはできない。
 しかし、長年露伴を読んできて、多少なりとも露伴のことがわかったような気がするのである。
 そして、理解したところの露伴をわかりやすい言葉で、なるべき多くの読者に伝えたいと思うのである。
 「露伴を後世に伝える」こと、
 これはまさに露伴の言うところの植福なのではないだろうか。
 そういう思いも私にはあるのである。




[ ふみどころ:2012 ]



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2012年6月11日月曜日

★ 柳田国男集:魂の行くへ

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● 1969/03/15


 柳田国男は文章の宝庫である。
 あれもこれも、書きとめておきたいことが山のようにある。
 とはいえ、それはできない。
 よって、腹をくくって「一切載せない」とつもりで読んでいたのだが、やはり「それでは、むごい」
 単行本や小説ではない。
 何しろ四十年以上も昔の本。
 字も小さく、ぎっしり詰まっている。
 一日二日で読みきれるシロモノではない。
 蛍光ペン片手に、マーキングをかけていく。
 分からぬ文章は二度三度読み返すことになった。
 コツコツと少しづつ目を通して、やっと読み終えた。
 折角だから、読みきったことを何か残しておきたい。
 ということで、さて最後に載っている「魂の行くへ」の最後の部分をタイプすることにした。
 まさに、最後の最後の文章である。


魂の行くへ

 とにかく記録文献の上では、法師の干与した行事だけが早く現はれ、家々の魂祭が遥かに遅いばかりに、この風習までが外来のもののやうに、久しく断定せられて居たのだが、これほど大きな仏法の影響の下でも、なを日本固有の考えは伝はわって居る。
 百年二百年の遠い先祖が、毎年この日になると元の家に還り、生きた子孫の者と交歓するということが、果たしてあの宗旨で説明し得られようか。
 山へ戻って次の年の初秋に、迎へに来るのを待って居るといふものが、実際に仏法のホトケなのであらうか。

 日本を囲ねう(イギョウ?:辞書になし)したさまざまの民族で、死ねば途方もなく遠いとおい処へ、旅立ってしまふという思想が、精粗幾通りもの形を以って、大よそは行きわたって居る。
 独りかういう中に於てこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷をの山の高みから、長く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念して居るものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである。
 それが誤ったる思想であるかどうか、信じてよいかどうかは是からの人がきめてよい。
 我々の証明したいのは過去の事実、あまたの幾月にわたって我々の祖先がしかく信じ、更にまた次々に来る者に同じ信仰を持たせようとして居たということである。
  自分もその教えのままに、そう思って居られるかどうかは心もとないが、少なくとも死ねばすなわちコスモポリットになって、住みよい土地なら一人きりで、何 処へでも行ってしまはうとする信仰をを奇異に感じ、夫婦を二世の契りといひ、同じ蓮の台(うてな)に乗るという類の、中途半端な折衷説の、生れずに居られ なかったのは面白いと思うふ。
 魂になってもなほ生涯の地に留まるといふ想像は、自分も日本人である故に、私には至極楽しく感じられる。
 出来るものならば、いつまでも此国に居たい。
 そうして一つの文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するやうになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守って居たいものだと思ふ。
 
 昭和24年の9月5日、この月曜日は、松岡約斎翁が亡くなられて、ちゃうど53回目の忌辰である。
 翁は仏教は信じられなかったが、盆の魂祭は熱心に続けて居られた。

 (昭和24年12月)
 








[ ふみどころ:2012 ]




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2012年6月5日火曜日

:「第二部」解説 森下一仁

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● 2011/11/06[2006/07]



 解説-「D-3」プロジェクトに参加して

 大ベストセラー『日本沈没』には最初から第二部が予定されていた。
 上下二巻に分かれたあの作品の巻末に
 「第一部 完」
と記されていたことからも、それは明白である。
 今さらいうまでもないことだが、『日本沈没』は地球のダイナミックな活動に巻き込まれ、日本列島全体が海底に消えてしまう物語である。
 「沈没」の詳細なメカニズムと、迫力に満ちた描写が圧倒的な印象を残す。
 しかし、小松左京がこの小説を書こうと思ったきっかけは別のところにあった。
 『小松左京自伝』には『日本沈没』の執筆について次のように書かれている。


 書きはじめた動機は戦争だった。
 本土決戦、一億玉砕で日本は滅亡するはずが、終戦で救われた。
 それからわずか20年で復興を成し遂げ----(中略)----高度成長に酔い、浮かれていると思った。
 ----(中略)----のんきに浮かれる日本人を、虚構の中とはいえ国を失う危機に直面させてみようと思って書きはじめたのだった。
 日本人はとは何か、日本とは何か、を考え直してみたいとも強く思っていた。


 つまり、日本が滅亡する危機に直面した状況を作り出すことが第一であり、国土の沈没はその方便であったといってもいいだろう。
 書きはじめた当初、作品タイトルは『日本滅亡』にしようと小松左京は考えていた。
 「沈没」ではなく、あくまで「滅亡」が念頭にあったのである。
 とりあえず切りの良い所で出版社に渡され、『日本沈没』というタイトルで世に出た作品は、「滅亡」のはじまりが語られただけにすぎない。
 だから「第一部 完」の文字が巻末に記されることとなった。

 しかし、
 「日本が滅亡したあと、生き残った日本人タチが流浪の民になって世界各地で生き延びようと試みる」(『小松左京自伝』という第二部
 --というか、意図した作品の主たる部分--
は、その後、書かれることなく、30年が経過した。
 なぜ第二部がすぐに書かれなかったのか。
 読者も(そして出版社も)待望していたはずなのに、なぜ作者は筆を執ることができなかったのか。
 その理由について、再び『小松左京自伝』から引用してみよう。


 すぐ書くつもりだった続編はなかなか書けなかった。
 私自身が忙しくなったし、日本も大きく変わった。
 高度成長は終焉を迎え、構想が次々に浮かび、消えていった。
 だが『日本沈没』を完成させたいという思いはいつも念頭にあった。

 
 2003年の10月、小松左京事務所"イオ"から電話があった。
 内容は『日本沈没 第二部』出版のプロジェクトを立ち上げるので参加しないか、という打診だった。
 高齢となった小松左京自身が筆を執ることはできないが、若手との共作という形で長年の願いを叶えたいというのである。
 この機会を逃しては、この先ずっと後悔するだろう。
 ぜひやらせて下さい、と返事して受話器を置くとすぐに『日本沈没』のあれこれが頭の中で渦を巻いた。
 遠い記憶のことではない。
 1995年の阪神大震災直後に緊急出版された『日本沈没』光文社文庫版の解説を担当し、そこに詰め込まれた情報の幅の広さと深さにあらためて感嘆したこと。
 また、この電話があった前の年、<小松左京マガジン>に短編を書いた際に、舞台設定を日本列島沈没後の世界にさせてもらったこと。
 こうしたことで、結果的に自分は評論家の頭と小説家の頭、両方を使って『日本沈没』第二部を構想する準備をしていたのかもしれない。

 「D-3」と名づけられた第二部出版のプロジェクトは、11月1日、イオ事務所で始動した。
 小松左京、執筆者に決まった谷甲州、そして乙部順子、編集者、私がメンバーとなり、取材と会合を重ねた。
 先にふれたように、検討すべきことは無数にあった。
 それらは大きく4つの範疇に分けることができるかもしれない。

 一つは、自然環境の激変。
 列島沈没後の世界はどうなるのか。
 東アジアの島弧が海底に沈むという現象は、さらなる地球規模の前触れではなかったのか。
 それはどのようなものなのか。

 二つめは、政治的・社会的変化の行方。
 国土を失った日本人は、何処で、どのようにして生き延びてゆくのか。
 国際社会は彼らをどう扱うのか。
 領土・国民・主権という国家の三要素の一つを失って、なを日本は国家として成り立つのか。
 その場合、経済基盤はどうなるのか。
 政府はどこに置かれるのか。
 
 三つめは、そもそも日本とはどういう国なのか。
 国土を失い、世界に出ていった時、国民はどのように考え、行動するのだろうか。

 四つめは、小説の骨格となるドラマをどのようなものにするか。
 第一部のラストで記憶を失ったヒーロー・小野寺俊夫の運命は。
 姿を消したヒロイン・阿部玲子との再開はあり得るのか。
 一世代後の新たなヒーロー、ヒロインはどのようなものになるのか。
 彼らが織り成す物語は?

 小説の中では、これらがばらばらに処理されるのではなく、有機的に絡まり、複雑に関係する諸問題が登場人物たちの行動を呼び覚まし、ドラマを形成する必要がある。
 そうでなくては、小松左京の作品とは成り得ない。
 宇宙的、地球的規模の大問題と、個人の生き方が響きあい、実存の叫びを呼び覚ます--それが小松作品の真骨頂である。
 これを外すことはできない。

 すべての土台となるのは小松左京の抱く構想だった。

 一の「自然環境」についていえば。1974年に気象学者の根本順吉や地球物理学者の竹内均らとのシンポジウム形式でまとめた
 『地球が冷える 異常気象』(小松左京編・旭屋出版)
という本がある。
 巨視的に見た地球環境の変遷と、人類文明との関連を考えると、穏やかな気候のもとで食料や住居に恵まれた現代は僥倖に過ぎないのではないかと考えざるを得ない。
 人間にとって過酷な環境が出現するのは必然ではないか。
 それはどのようなものになるのか。

 氷河期の襲来--というのが、第二部を構想するにあたって、小松左京の念頭にあったアイデイアだった。
 その結果起きた事態における具体的場面も思い描いている。
 しかし、現在は温室効果ガスによる温暖化が明らかになった。
 両者をどう折り合わせるか。
 筆を執るのを阻む要因の一つだったにちがいない。

 二の「政治的・社会的変化」に関しては、イスラエル建国に至ったユダヤ人の運命が気になるところだ。
 彼らと日本人はどこが違い、どこが似ているのか。
 「第二の日本」を建国するとすれば、場所はどこになるのか。
 難問である。

 三番目の、「日本と日本人」の問題も難しい。
 実際、各国へ移民した人たちや、その子孫はどうなっているのだろうか。
 日本人であることからくるナショナリズムと、「地球市民」たるコスモポリタニズムはどのように対立し、折り合いをつけるのか。

 ちょっとやそっとの取材や討論では結論が見えそうもない問題ばかりである。
 しかし、小松左京はこうした問題の裾野から先端まですべてをインプットしたうえで、フィクションとしての虚構を構築してきた。
 今回も可能な限り、踏襲する必要がある。
 「D-3」のメンバーはそのために各自で調査し、あるいは全員で取材に赴いた。
 何人もの専門家に会い、いくつもの施設を見学した。

 いつの場合でも小松左京が先頭にたって質問を投げかけ、また、自らの見聞に基づく意見を述べていた。
 とりわけ関西における何度かの取材では、地元の強みということだろうか、適度にリラックスしながら、鋭い知的会話を楽しんでいたように思う。
 先端のさまざまな知識や研究者たちに触れるという意味でも、あるいは、小松左京の取材スタイルを知るという意味でも、こうした経験は私自身にとって、得がたい勉強となった。
 中でも特に印象が深いのは2004年7月、海洋研究開発機構横浜研究所を訪れての地球シュミレータ見学である。
 当時、世界最高の性能を誇ったスーパーコンピュータをこの目で見、研究者の説明を聞くというとびきりの取材が出来ただけでなく、突然の落雷のために非常電源に切り替えられる瞬間に立ち会うという幸運(?)に巡りあえたのだ。
 施設内のあかりが落ち、非常灯のみで照らされる中、係の人の誘導でスパコンの「体内」から避難した。
 インジケーターランプが一瞬にして切り替わり、データがバックアップされていく様子がとてもスリリングだった。
 地球シュミレータの持つ可能性自体が刺激的だったことはいうまでもない。
 さまざまな自然現象をスパコンで追認し、メカニズムを解明するという研究方法は、従来の「仮説と実験」に頼る科学の方法を劇的に変えつつあるという時間を得た。
 現場では谷甲州が人一倍目を輝かせていた。
 「あ、何かが彼の中にインプットされたな」
と思ったものである。

 ともあれ、多くの準備を重ねた上で、谷甲州が実際の執筆に取り掛かったのが2005年春頃だったろうか。
 その後も地球深部探査船「ちきゅう」見学など、いくつかの取材を続けながらの執筆となった。

 単行本の刊行は2006年夏(2006年7月)。
 樋口真嗣監督による映画『日本沈没』の後悔と同時期ということもあり、相俟って多くの人々関心を呼んだ。
 文庫本刊行を期に、さらに多くの読者に楽しんでいただけることを祈っている。
                                  --文中敬称略させていただきました。
 』
 





日本沈没(1973)予告編
http://www.youtube.com/watch?v=qvI1KBOwGQg&feature=related



映画 日本沈没 2006年
http://www.youtube.com/watch?v=iNdh5A6MWK8&feature=related





[ ふみどころ:2012 ]



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