2012年5月5日土曜日

:太史公曰く

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● 1999/11/01[1997/04]


 謎に包まれた劉邦
 漢王朝をひらいた劉邦にはわからないことが多い。
 まず生年月日がわからない。
 史記には年齢のことがどこにも書かれていないのである。
 司馬遷は漢王朝の臣であるが、高祖・劉邦の年齢を記してはいけないという禁忌があって、その記述をさけたわけではあるまい。
 そのような禁忌があったとはおもわれないから、要するにわからなかったのであろう。

 劉邦の家族についても不明なことが少なくない。
 まず両親の名がわからない
--父を太公といい、母を劉媼という。
 「高祖本紀」にはそうあるが、太公というのは劉邦が皇帝になってからの尊称である。
 また劉媼の媼は「ばあさん」というのと同じで、あるいはこれは司馬遷のユーモアなのかもしれない。
 さらにわからないのは、劉邦の兄弟である。
 劉邦のあざなは季(き)であるから4人兄弟の末と考えられるが、三男をあらわす叔(しゅく)のあざなをもつ兄の存在がみあたらない。
 また、史記には突然、交(こう)という弟の名があらわれ、劉邦はその弟を楚王に任命する。
 すると5人兄弟であったのか。

 劉邦の親戚については「荊燕世家」が設けられており、そこに劉賈と劉沢という二人の王が東城する。
 この二人について司馬遷はさじを投げた感じで、
 「不知:しらず」
と、書いている。
 出身がまったくわからないが、とにかく劉邦の一族の遠縁にあたる者であろうということである。
 それらのことをまとめてみると、いかに劉邦が卑賤の出であったか、ということである。




 呂后の殺人
 呂后はいったい何人を殺したのだであろうか。
 呂后は名は雉(ち)で、あざなを娥姁(がく)という。
 呂文の娘として生まれた。
 呂文はのちに呂公とよばれるが、経歴のわからない人である。
 単父というところで人を殺した呂公は、親交のある沛(はい)の県令をたよって、沛県に逃げ込んだのである。
 県の長官を令という。
 さしずめ市長である。

 さて、その呂公に面会を求めたもののひとりに劉邦がいたことで、呂公の一族の運命が大いに変わった。
 そのとき劉邦は配下を二人しかもたぬ役人であったが、娥姁を妻にしてまもなく起こった革命の風雲に憑り、ついに天下を制した。
 呂公の娘の娥姁は皇帝の后になったというわけである。

 呂后の最初の殺人は、叛乱の鎮定としておこなわれた。
 呂后が殺したのは、兵略の才では天下にならぶものがないといわれた韓信である。
 漢王朝がさだまりつつあるとき、自分の境遇に不満をいだいた韓信は、漢王朝の転覆をたくらむが、密告され、呂后におびきだされて斬られた。
 そのとき韓信は、
 「女こどもに詐かれるとは、天命というしかない
と、なげいた。

 呂后の殺人がすさまじくなるのは、劉邦が亡くなってからである。
 まず、もっとも劉邦に愛された戚(せき)夫人を捕らえ、手足を切り、目をぬき、耳を焼き、厠室の不浄のなかに沈めて殺し、その子の如意を毒殺した。
 二代目の恵帝に子がなかったので宮中の美人の子をひきとって帝に立てた。
 そのおり、母親にあたるその美人を殺した。
 のち、その帝が事件の真相を知ったので、幽閉して殺した。
 また劉邦の子の友(ゆう)を招き、屋敷の衛士で包囲させ、餓死させた。
 さらには劉邦の子、カイの寵姫を毒殺させた。
 そのせいでカイは自殺した。
 ほかにも劉邦の子の建と美人とのあいだにできた子を毒殺させている。

 呂后の冷血はどこからきたのであろうか。




 呂后の治世 
 つくづく史記がおもしろいとおもうのは、呂后の非情さを、ときにすさまじく、ときに冷静に描写しておきながら、呂后についてまとめの批評というべき、
 「太史公曰く」
の段になって、その治世をたたえていることである。
 絶賛といってもよい。
 それだけ読めば、呂后はまれにみるすぐれた女帝である。

 では呂后はいかなる善政をおこなったのであろう。
 長安の宮殿には城壁がなかったので、それを完成させたことは「呂后本紀」にみえる。
 が、それ以外の事業についてはまったく書かれていない。
 呂后の政治の内容にふれているのは史記の「平準書」である。
 それに『漢書』をあわせて読むと、やや実体があきらかになってくる。

 恵帝の4年に、父兄によくつかえ、耕作にいそしむ者を推挙させ、その者の租税を免除させている。
 さらに、悪法をのぞこうとした。
 人民のさまたげになっている法令をはぶき、蔵書を禁じた秦の法律を廃した。
 楚漢戦争によって中国の人口は半減したといわれる。
 人口を増やさなければ、生産力も向上しないので、恵帝の6年に、30歳までに嫁がない女子に課税することにした。
 恵帝がなくなったあと、八銖銭(はっしゅせん)を流通させた。
 秦王朝のつくった銭である。
 この銭は重いので、漢王朝は莢銭(きょうせん)という軽い銭をつくったものの、軽すぎてきらわれたために、もとの重い銭にもどしたのである。
 が、それで通貨の主流がさだまったか、どうか。
 八銖銭の再登場に反発するように莢銭の流通が盛んになったことは事実である。
 ただし、呂后が貨幣経済におざなりではなかったことはまちがいない。

 こうしてみてくると、呂后は人民に愛され、劉邦の遺児と遺臣に忌み嫌われたという、ふしぎな像を網膜に結ぶ。




● 史記「平準書」 中国古典文学大系より



 太史公曰く
 司馬遷は史記の紀伝に、それぞれ、
 「太史公曰く」
という短評を設けている。
 たとえば劉邦と天下を争った項羽については、

 攻伐の武功を矜り、自分だけの知恵をふるい、古代や古人から学ぼうとせず、覇業ばかりをとなえて、力征をもって天下を経営すること5年であったが、ついにその国を亡ぼし、身は東城に死した。
 それでもおのれの非をさとらず、おのれの過ちをせめず、かえって、「天が我を亡ぼすのであり、兵を用いた罪によるわけではない」、といった。
 どうしてそれが謬りでないことがあろう。

と、むすんでいる。

 項羽本紀はどちらかといえば項羽に同情的な筆の運びであるが、ここにきて、一転して痛烈な批判をおこなっている。
 司馬遷の史観を考えるうえで「太史公曰く」が重要であることは言うまでもない。
 では、司馬遷は劉邦をどう観たのであろう。
 高祖本紀の「太史公曰く」では、なんと劉邦について明確な批評はなく、
--漢興りて、へいを承けて易変し、人を倦まざらしむ。
  天の統を得たり
と、結語をおだやかにおいている。
 漢が興ると、秦の弊害をあらため、人民に飽かれない政治をおこなった。
 天のきまりにそった王朝である。
 そのように王朝の存在意義を述べた司馬遷が劉邦の批判を行わなかったのは、なぜであろう。
 本紀のなかで、言い尽くしたと思ったからであろうか。

 つぎの呂后本紀では、またあざやかな評言が復活している。
--天下晏然たり。

 恵帝や呂后の時代は、庶民は戦国の苦しみからはなれることができ、君臣はともになにもしないでおられるような休息を欲した。
 それゆえ恵帝は手をこまねいたままであり、生母である呂后が女ながらも主となって、命令を下した。
 その政治は閨房をでなかったにもかかわらず、天下は晏らかであった。
 刑罰がもちいられるのはまれで、罪人もめったにでなかった。
 人民は稼穡につとめ、移植はいよいよ豊かになった。

 おどろくべき善政である。
 呂后の政治を司馬遷は絶賛している。
 本紀のなかにあったのは血なまぐさい権力闘争であるのに、皇宮の外に出ると、あきれるほど平和であった。
 これほどの対蹠は、どの「太史公曰く」にもない。

 そもそも「呂后本紀」をおいたこと自体、呂氏が天下をとったことを認めたことであり、呂后の父は、秦の始皇帝のときの宰相であった呂不韋にかかわりのある人らしい。
 呂不韋は『呂氏春秋』をつくり、始皇帝に自殺に追い込まれた人である。
 司馬遷の同情は呂后を経由してそのあたりまで遡ったのかもしれない。



● 中国古典文学大系より







【付】

劉邦の大風歌 -漢建国記-
http://www.youtube.com/watch?v=9_KCbZ8qXms





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