● 1999/11/01[1997/04]
『
人知の宝庫
司馬遷の『史記』は、紀元前90年ころに完成された大歴史書である。
そのころ書かれたものが残り、その記述が後世に伝わったということは世界的にいってもたいへんめずらしいのに、その内容たるや、まさに人知の宝庫といってよい。
およそ130篇の大著である。
文字数は52万6500であると司馬遷自身が書いている。
構成は「本紀」「書」「表」「世家」「列伝」となっている。
「本紀」には各王朝の盛衰が書かれている。
「書」は文化史といえるが、司馬遷の歴史評論集である。
この部分は著者の広汎な知識とするどい分析力が必要であり、のちの歴史家ではとても手に負えないジャンルとして、はぶかれるようになった。
「表」は年表だとおもえばよい。
「世家」は諸侯の事績が中心であるが、たとえば孔子のように、君主になったわけではないが思想家で大家をなした傑俊は、そのなかで一巻を与えられている。
「列伝」はむかしからもっとも人気の高いジャンルで、天下に名をあらわした個人の伝記である。
そのように「本紀」と「列伝」が組み合わさった歴史書の構成を「紀伝体」といい、むろん司馬遷の発明であり、のちの歴史家はそのスタイルを踏襲することになった。
『史記』の第一巻は「五帝本紀」であり
--黄帝は少典の子なり。姓は公孫、名は軒轅という。
という記述からはじまる。
黄帝という太古の聖王が君臨していた時代から、司馬遷が生きていた前漢(西漢)王朝の武帝の時代まで、いったい何年になるのか。
二千年はゆうにこえるであろう。
司馬遷が生きていたころ、日本では、弥生時代の中期にあたる。
日本の歴史がこれから始まろうとするころに、中国ではその歴史が集大成されるということも、驚異にあたいする。
とにかく、『史記』のはかには汲めども尽きない叡智がたたえられていて、古代中国の人々の生き方や考え方、それに発明、発見、習慣など、日本に影響をあたえたこともすくなくなく、あらためて知れば、現代人としても大いに興味をそそられることが多い。
事件や人物をぬきにして古代を語ることはできないが、それらはなるべく脇において、『史記』に現われた語句を基準にして、古代中国をさぐってゆくことにする。
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『
漢の文帝
わたしは35歳から『史記』を正面にすえて読み始めた。
それから16年が経とうとしているが、まだ全巻読みつくしていない。
そのかわりといっては何であるが、おなじ文を5回、10回と読んでいる。
頼山陽は『日本外史』を書くにあたり、史記の項羽と劉邦の戦いのところを開いたままにして執筆をつづけたといわれる。
それに近いことをわたしもする。
司馬遷の気息にふれて、気分が高揚するせいであろう。
たとえば史記のなかの人物は、はげしく喜び、はげしく怒る。
大いに哀しみ、大いに楽しむ。
そういう感情の起伏の大きさはじつは人間の原点にあったものであろうし、そこからかけはなれたところにいる現代人が、史記をを読むことによって、人であることに回帰し、やすらぎを得るにのではあるまいか。
わたしは「本紀」を中心にして年表を作ってきた。
いま漢の景帝の時代で、その作業はとまっている。
高祖(劉邦)、恵帝、呂后、文帝と本紀の内容は豊かであったのに、文帝の子の景帝になると、貧弱になる。
司馬遷が仕えた武帝については、何も書かれていないといってよい。
景帝と武帝についての記事は、やはり削除されたとおもわざるをえない。
それはまことに残念なことである。
が、文帝に書かれた「孝文本紀」がそこなわれなかったことはありがたい。
黄帝から聖王や名君が続々と登場するが、史記における最後の聖王は、この文帝である。
文帝は堯帝のように何もしないで天下をよく治めたという人ではなく、失政があり誤謬もおかした。
しかしこの皇帝の聴政には人の温かさがかよっており、皇帝としてできるかぎり全身全霊で行ったというのが、文帝ではなかったか。
障害を緊張のなかにおき、ついに頽弛をみせなかったというのは、みごとというほかない。
人民はいちどでよいから税金のない世をすごしてみたいと願う。
願うだけでけっして実現するはずがないとあきらめている。
ところが、この文帝は、農民にだけであるが、
--田の租税を除け。
と、およそどの皇帝も行ったことのない租税撤廃をおこなった。
みずからけっして奢らず、夫人には裾を引きずるような衣服を許さず、人臣のために心身をささげぬいた文帝を、司馬遷は「太史公曰く」のなかで、
--嗚呼豈に仁ならずや。
と、ほめちぎっている。
『史記』の風景のなかでもっとも高いところにいる人主とは、文帝である、という考えは、いまもかわらない。
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あとがき
古代中国の人、文物、習俗などについて、司馬遷の『史記』から題材ををとり、書いてみようと思ったのは、4年前のことである。
産経新聞(大阪)から、その種の執筆を誘われた。
それゆえこの稿に自発的にとりかかったわけではなく、連載の話が持ち込まれたとき、
--勉強のためにやってみよう。
と、おもったというのが事実に近い。
中国の古代史を専門にしている学者を器用せずに、不正確な知識しか持ちあわせていないわたしにそういうものを書かせようと意図はわからぬでもない。
学者によっては正確を期するあまり、あれはちがう、これは誤りである、というように文全体が否定形になりやすく、紙面が冷える。
ところが小説家は一種無責任な立場から、想像や空想をひろげる。
そのあたりを新聞の責任として、筆者が妄想に固執しないように、また読者をまどわせないように、制御しつつ、読者に小さなおどろきをともなった夢をあたえようとしたのであろう。
連載をはじめてみて、すぐに自分の浅学を痛感した。
この種のものは広汎な知識を必要とする。
もちろん連載を続けるために勉強しつづければよいのであるが、知ったことをすぐにかけば、
--小人の学は、耳より入りて、口より出づ。
と、荀子に笑われるであろう。
知ったことがほんとうに自分のものになるのかは、心身にゆきわたる時を必要とする。
そういう時をもたぬ言葉は、読者への浸潤を失うことがわかっているだけに、忙中にある自分が苦痛であった。
新聞の連載は一年余で終わったが、ほっとすると同時に、中途半端な感じをいだいた。
そのため新潮社に、おなじスタイルで書かせてもらえないだろうか、とたのんだ。
『波』の誌面を頒けてくれた。
苦痛が続くのを承知で、書き始めた。
勉強というよりは挑戦という気分になった。
その連載が二年つづいた。
ふたつの連載をあわせてようやく本になる。
出版に際して新潮社出版部に世話になった。
1997年3月吉日 著者
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