2012年5月12日土曜日

:司馬遼太郎さんについて

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● 1999/11/01[1997/04]



 風と雨
 余談をはさみたい。
 司馬遼太郎さんが亡くなられたからである。
 司馬さんはいうまでもなく、『項羽と劉邦』の作者である。
 その作品は「小説新潮」に連載されているときは、たしか「漢の風、楚の雨」という題であったように記憶している。
 劉邦が風であり、項羽が雨である。
 その風雨の時代が描かれている。
 中国では春秋時代が雨期であったことは「春秋左氏伝」を読むとわかる。
 人ではどうにもならない気候の変化と四季の移り変わりは、天に支配されるところであり、それが項羽の運命に投影されている。

 一方、漢の風はどうか。
 劉邦自身は、
----わしは楚人である。
といっていたように、漢(漢中)は出身地ではない。
 項羽によって漢王のみ分をさずけられたため、かれの王朝名が漢になったのである。
 風は、劉邦に「大風の歌」という詩があるところから発想されたものであろう。

 風土といういいかたがある。
 風も神であり、その風によって教化され支配される地が風土なのである。
 風は四方八方から吹く。
 その恣意的な動きは、むしろ項羽の生涯にに似ており、天命ということを知っていた劉邦は、実に楚の雨にあうという逆説を司馬さんの作品はそなえているように感じられる。
 名作である。




 精神の所在
 さらに司馬遼太郎さんについて書いてみたい。
 司馬さんにお目にかかったとき、
 「孟嘗君のような三流の人物を、あそこまでよく書いたね」
と、おっしゃった。

 拙著に『孟嘗君』という小説がある。
 史記には、「孟嘗君列伝」がある。
 それを読むと司馬遷の多少冷ややかさをもって孟嘗君を書いている。
 が、三流の評価は両司馬氏がくだしたわけではなく、漢書以後にそうなったのであろう。
 いわば中国人の認識であり、それを司馬さんがおかしみをこめて踏襲なさったのであろう。

 司馬さんの漢籍への造詣の深さはおどろくべきもので、それとは別に、塞外の民へ大いなる同情をもたれた人である。
 中国人は古代においてすでに高い城壁を築く技術を身につけ、その城壁で四方を囲み、その中で暮らすようになった。
 秦の始皇帝が中国を統一してからもその風習は消えず、中国そのものを長い城壁で囲もうとした。 
 つまり中国人の生命と精神は常に塞内で保たれてきた。
 そのことが生命力と精神力の衰退を招いたのではあるまいか。
 司馬さんは、
 「中国の歴史は逆ピラミッドだよ」
と、実際に虚空に逆三角形を指でお描きになった。
 古代のほうがひろがりがあり、漢の武帝の時代に儒学が権威を持つと、
 「あとは古代、ずーっと古代」
と、おもしろい表現をなさった。
 たしかに儒学の本質には、尚古、があり、その儒学をしらなければ官途に就けないとなれば、ほかの学問は衰えるだけになってしまう。

 司馬さんはおそらく拘束された精神を嫌っておられたにちがいない。
 とくに朱子学を否定する発言をなさったのもうなずける。
 司馬さんが欲しておられたのは豊かな精神であり、その精神は春秋時代を経て戦国時代でほぼ尽きようとする。
 それなら、長城の外で草原をのびのび疾走する民のほうがおもしろいということになる。

 それはそれとして司馬さんの漢語のつかいかたは絶妙である。
 小説の題名も『胡蝶の夢』のように『荘子』からとられたものもあり、また『翔ぶが如く』は、『詩経』「斯干(じかん)」の、
--キジの斯(こ)れ飛ぶが如し
  君子のノボるトコロ
を、想起させてくれる。
 『花神』も花をつかさどる神をあらわす漢語からきている。
 司馬さんの日本の歴史小説を読みながら、じつは中国の歴史通になっているのが読者の実態ではあるまいか。
 司馬さんの恩恵ははかりしれない。




 車上の木主(ぼくしゅ)
 中国の歴史に関心をもちはじめた人がとまどうことといえば、
--どの時代から中国史に入ってゆけばよいか。
ということではないだろうか。
 たとえば吉川英治氏の『三国志』を読んだ方は、三国時代に、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』を読んだ方は秦末漢初という革命期に、大いに興味をもたれるにちがいない。

 が、その両時代に大活躍した人々のたぐいまれなる個性に魅了され、ドラマ性の豊かさになれてしまうと、他の時代が軽薄にみえ、小説化される以前の歴史そのもののおもしろさまで手が届かなくなる。
 真に中国史のおもしろさを知るには、やはり中国人の精神世界が物と遊離しすぎない処にあるものをとらえるのがよい。
 そういう点からいえば、商(殷)末周初という時代が、中国の原形をもっともわかりやすく呈示してくれているようにおもわれる。
 孔子の論語は中国人ばかりでなく日本人にとっても、精神のふるさとであるが、
 孔子自身は殷人の子孫であるといい、商と周の違いに言及することがすくなからずあるので、商という時代をふまえていると周の時代の良否がいっそうあざやかにみえるようになる。

 わかり過ぎるということは面白みのないことで、論語でも全語句が解明されているわけではなく、そこがこの書物の魅力でもあるように、商王朝から周王朝に代わるころの事件や人物について、おびただしい謎が残されたままになっている。
 歴史とは巨大なミステリーだといっても過言ではあるまい。

 そのなかで尤(ゆう)たるものは、商の紂王を討つべく周を発した武王が、車の上に木主を載せたことであろう。
 それについて史記では、つぎのように記されている。
--文王の木主を為(つく)り、載するに車を以ってし、中軍とす。
  武王は自ら太子発と称す。
 ここでいう文王とは武王の父である。
 武王は父が亡くなると即位し、位牌にあたる木主を元帥が載るべき車に据えた、ということである。
 
 武王自身は太子と称したのであるから、まだ即位していない体にした。
 ここが実にわかりにくい。
 この時代、太子は王の嫡子であるというより、、子、すなわち王子たちが率いる軍団の総帥であるとおもったほうがよい。
 なぜ、自身が元帥にならずに、父の文王の木主を元帥にしてたのか。
 そうせざるをえなかったから、そうした、というのが歴史である。

 商王朝は紂王(帝辛)で終わり、周王朝は武王(発)からはじまることは、よく知られている。
 <<略>>
 発の父である文王は兵を休めずに中原まで攻略した。
 その周の猛威を追い払うために、帝辛は文王を捕らえ、ユウ里という牢獄に投じた。
 問題はここである。
 史記では、文王は出獄したことになっている。
 ちなみに『竹書紀年』では、帝辛の23年に文王は東国され、29年には許されている。

 だが、武王の本尊の謎をもっともすっきり解くには、文王がユウ里で獄死し、その死骸が周に届けられなかったために、怒った武王が木主を立て、復讐のために出陣したと想像するのはどうであろうか。
 ただし、そうなると私としては小説を書き直さなければならなくばる。



● 平凡社中国古典文学大系 昭和43年2月5日初版