2012年5月2日水曜日

:司馬遷の復讐

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● 1999/11/01[1997/04]



 みことのり
 秦は、
--命を制と為し、天子みずからを称して朕と曰ん。(秦始皇帝本紀)
ということを行った。
 命とは、令と口の合字で、たがいに通じるものの、令は小事についてのみことのりであり。命は大事についてのみことのりである。
 また、これまで庶民も自分のことを「朕(ちん)」と言っていたのだが、これ以後は天子のみが自分のことを朕という。
 そういうきまりができた。

 日本では天子のみことのりを「詔勅」ともいう。
 勅は、中国の古代では農機具を清めるための儀礼のことであったが、唐代において進化の任命を勅というようになり、日本にその用法が輸入された。
 ただし、ニアンスが違い、日本の「詔」は大事に使われ、「勅」は小事につかわれる。



 死の習俗
 喪服といえば黒を思いうかべるのがq日本人であるが、古代中国における喪服の色は「白」であった。
 人の死についても、よびかたがさまざまあり、古代の習俗について多くが載せられている。
 礼記によると、
 天子が死去することを「崩:ほう」といい、
 諸侯は「薨:こう」といい、
 太夫(小領主)は「卒:しゅつ」といい。
 士は「不禄:ふろく(禄は当て字)」といい、
 庶民が「死」という。
 ちなみに鳥類の死は「降:こう」といい、獣の死は「漬:し」という。

 父母などを亡くした人は、喪に服するわけであるが、その期間はふつう3年といわれている。
 これは足掛け3年のことで、正確には25ケ月である。



 暦のはじめ
 正しい暦をつくることは、どの王朝も悩みのタネであった。
 暦の正しさが、その王朝の正統性を高めることにつながる、といっても過言ではない。

 史記の「五帝本紀」にしたがって暦に関することがらをみると、まず、黄帝の時代には、
 「五気を治める」
ということが行われた。
 五気とは、「五行の気」ということで、「木・火・土・金・水」という宇宙を構成する要素を季節に当てはめたということであろう。
 ただし、五行の研究と黄帝の事績の検索は、戦国時代に斉の国で盛んに行われたことで、たとえば戦国時代より前の主従時代には黄帝の名が文献に現れないことを考えれば、その信憑性を多少割り引いて考えたほうがよいかもしれない。

 黄帝からはるかに時代が下がって堯帝があらわれる。
 ここではじめて暦がつくられる。
 暦の作成を堯より命じられたのは、義仲(義は当て字)と和仲のふたりである。
 そのあたりについて史記は、
--義仲に命じ、敬みてコウ天に順い、日月星辰を数え法り、敬みて民に時を授けしむ。
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--歳三百六十六日、閏月をもって四時を正す。
と、書いている。

 一年を366日とするというのが、紀元前2000年以前の堯帝の時代に定められたというのである。
 ところでその文ににある「数法」という語が、「暦数」につながるのである。
 しかも、1年を366日にすると過不足が生じるので、閏月を置くというのもここで認識されている。

 帝堯から位を譲られた帝舜には、
 「璿璣玉衡(せんきぎよくこう)」
と呼ばれる天体観測機があったらしい。
 つまり帝舜は暦数を自身でにぎり、進化にそれをまかせなかった。
 帝舜のもとには名臣がずらりとならんでいたが、暦の数法をかれらにさずけた記事は書経にもみあたらない。
 けっきょく帝舜は臣下のなかから帝禹をえらんで後継者とした。
 暦の数法をさずけたのは、そのときであろう。
 禹は夏王朝の始祖となる。
 夏王朝の暦を夏暦という。 
 日本の陰暦のもとになったのが、じつはその夏暦である。

 孔子は周王朝のよさを強調した人であるが、
 「暦は周暦より夏暦のほうがよい」
と、いった。
 実際、いまの日本でも陰暦で仕事を行っている人が少なからずいる。
 自然のリズムにあっているということだろう。
 陽暦は日数をあわせるために、頭でつくった暦という感じがしないでもない。

● 和漢三才図会 巻第十五より


 新年の吉凶
 「史記」のなかに、天文学書というべき、「天官書」がある。
 そのなかに天候を占う名人である魏鮮が、正月の朝に吹く風によって、その年の吉凶をどのように占ったかが記述されている。
 科学的根拠はさておいて、古代人がなにを感じ、なにを予想したのか、順をおって書き写してみる。

●風は八方から吹くものと考える。
●南風がやってくると、大きな旱害がある。
●西南風がやってくると、小さな旱害がある。
●西風ならば、戦争がある。
●西北風ならば、大豆がよく実る。
●小雨であれば、兵が出動する。
●北風であれば、穀物の実りは中くらいである。
●東北風があると、豊作である。
●東風があると、洪水がある。
●東南風が吹けば、民間に疫病があって、不作の歳になる。

 以上、八風による占いであるが、どうやら吉の風は北から吹いてくるものであるらしい。
 西北風、北風、東北風はいずれも吉である。
 風は商王朝のころから大いに意識されている。
 東西南北をつかさどる神を「方神」という。
 その神々の使者が「風神」である。

 また、史記の「天官書」には、正月の占いとして、
 人の声を聞く、
というものがある。
 正月の元旦のひざしが明るいときに、大都や町の人民の声を聞いてみる。
 その声が「宮音(きゅうおん)」であれば、その年は良い。
 中国には「五音」というものがあり、それは

 宮、
 商、
 角、
 徴(ち)、
 羽(う)

と、よばれる。

 『中国の音楽世界(孫玄例齢著、岩波新書)』によると、その五音とは、「ドレミソラ」にあたるという。
 それなら「宮音」は「ド」である。
 人民の声が、商(レ)に聞こえると、戦争がある。
 徴(ソ)なら旱害があり、
 羽(ラ)なら水害があり、
 角(ミ)なら、その年は悪い。

 音楽をやっている人に、元旦の人の声はどのように聞こえましたか、と聞いてみたらどうであろうか。



 高祖黄帝
 遠い昔のはじまりは、いったい誰が語り伝えたのであろう。
 史記には二千年以上の歴史が書かれているが、その巻頭は黄帝からである。
 黄帝は春秋時代にはあらわれない帝号であり、ちなみに論語には、黄帝よりあとの堯帝や舜帝はあっても、やはり黄帝はない。
 ということは、黄帝の存在は春秋時代のあとに想像されたのであろう。
 おもしろいことに、戦国時代の斉の国王であった威王の発言が祭器にきざまれて残っており、そこには、
 「高祖黄帝」
の文字がみえる。
 それはいわゆる金文であるから同時史料であり、田氏(陳氏)の大昔の先祖が黄帝であると明言したことにまちがいはない。

 春秋時代の人々が知らなかった黄帝を斉の高祖であるといったことは威王以前に斉において古代研究がさかんになり、
--堯や舜の前の帝王は、だれなのか。
 と、問討され、神話や説話が集められ、黄帝の存在が浮かび上がってきたと考えられる。
 したがって黄帝は想像力だけで生み出された帝王ではないかもしれない。
 人々がその存在を信じ、王室が認定するにいたるには、あきらかな根拠が必要である。

 史記にかかれている黄帝の実績は、斉で行われた研究の一部であろう。
 それが全部残っていれば、中国の神話と伝説はみごとな大系をそなえていたであろう。
 が、残念ながら、中国のそれはギリシャ神話にははるかにおよばない。



 司馬遷の復讐
 歴史というものは、かならず不公平がある。
 人のいとなみそれ自体が不公平をそなえているからである。
 中国の古代についていえば司馬遷の史記を抜きにして語ることはできない。
 だが、史記の記述が古代の実相のすべてにおよんでいるとは言い切れない。

 司馬遷という人は正義感の強い人であったようだ。
 その正義感が李陵の事件に発揮され、還ってわざわいをこうむった。
 李陵は司馬遷の僚友といっていい。
 漢の武帝が李陵に八百の騎馬を与えたところ、李陵は敵地である匈奴の地をニ千余里も侵入して還ってきた。
 その勇気をめでて、武帝は五千の歩兵を李陵にあたのである。
 李陵はその兵を鍛えて強兵にしたあと、武帝に出撃のゆるしを請い、匈奴征服をおこなった。
 ところが匈奴はその五千の兵を八万の兵で包囲したのである。
 さすがの李陵も力つきて、匈奴に降伏した。
 その行為を武帝への裏切りではないと信じた司馬遷は、李陵を弁護したのである。
 が、やがて李陵が匈奴の将となったことがわかり、激怒した武帝によって、李陵の母や妻子は処刑され、司馬遷も宮刑に処せられた。
 このときから司馬遷の正義感は、おもてにはあらわれず、自分のてがけている『史記』のなかにこもったにちがいない。
 
 「列伝」の冒頭をかざっているのは、「伯夷列伝」である。
 史実というよりむしろ神話に属するような話を、個人の伝記にあたる「列伝」のはじめにもってきた司馬遷の意(おも)いの哀しさとすさまじさは、読むものの胸を激しく打たずにはおかない。
 「列伝」の第二は「管晏列伝」であることも中尉をようする。
 司馬遷は『老子』や『孫子』などを愛読していたらしいのに、老子の伝は第三に、孫子の伝は第五にまわしている。
 神話からのがれた歴史上の人物として、管仲と晏嬰の伝記を筆頭にもってきたにはやはり、司馬遷なりの必然があったとみるべきである。
 
 管仲と晏嬰は、いうまでもなく春秋時代に活躍した斉の国の名宰相である。
 だが司馬遷はそれをいいたかったわけではない。
 管仲は斉の桓公に敵対し、命まで狙ったのに、ゆるされて宰相の地位にひきあげられた。
 一方、晏嬰は斉の荘公に憎まれ太夫の席を逐われたのに、荘公が殺されると、敵兵のただなかを単身ですすみ、荘公のなきがらをいたわった。

 この二つの説話に、漢の武帝と自身の関係を投影したかったのであろう。
 もっといえば、寛容力にかけた武帝は、司馬遷の『史記』によって、復讐されたのである。

 


[ ふみどころ:2012 ]



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