● 1999/11/01[1997/04]
『
司馬遷の兵法好き
司馬遷はおどろくべき兵法好きである
かれの先祖の司馬熹(しばき)は中山国の宰相であったし、司馬錯は秦の将軍であった。
すなわち司馬遷の意識のなかには二つの職があり、天職と呼んでよいのは、伝説の中の遠祖の重黎(ちょうれい)がそうであったように、天地の秩序の守り手となり聖職であり、ほかのひとつは、兵馬をつかさどる職である。
そのどちらにも精通していなければならぬというのが、司馬遷の自覚であったにちがいない。
』
『
兵法書 & 陣形
中国の古代にはいわゆる「七書:しちしょ」とよばれる七つの兵法書がある。
ちなみにそれらをすべてあげると、
『孫子(そんし)』
『呉子(ごし)』
『六韜(りくとう)』
『司馬法(しばほう)』
『黄石公三略(こうせきこう三略)』
『尉繚子(うつりょうし)』
『李衛公問対(りえいこうもんたい)』
ということになる。
中国の古代に大決戦、あるいは大会戦とよばれるものがある。
そのとき、両軍はどんな陣形をとったのか、さだかではない。
もっとも古い大決戦は、伝説の中の黄帝と炎帝とが戦った
「阪泉の野の戦い(はんせんのののたたかい)」
であろう。
これは史記の「五帝本紀」に
--三たび戦う。
と、書かれているから、大会戦といったほうがよいが、陣形のことはわからない。
次の歴史的な決戦は、商の湯王が夏の帝桀(けつ)を破った
「鳴条の戦い(めいじょうのたたかい)」
である。
そのときの商軍の陣形についてはてがかりがある。
『墨子』のなかに、
--湯は車九両をひきい、鳥陳雁行(ちょうじんがんこう)す。
という一文がある。
陳とは陣のことである。
雁行はむろん雁が空を飛ぶ列の形である。
陣形は8つあり、それを「八陣」というのは、中国の戦国時代にあらわれた天才兵法家の孫濱の兵法書にもみえる。
日本の戦国時代にも八陣という言葉は使われた。
魚鱗(ぎょりん)、
鶴翼(かくよく)、
長蛇(ちょうだ)、
月(えんげつ)、
鋒光矢(ほうこうし)、
方円(ほうえん)、
衡軛(こうやく)、
雁行(がんこう)
が、その八陣である。
鳥陣というのは、このなかにはなく、のちに鶴翼にかわったのであろうか。
鶴翼の陣を好むには理由がある。
商も周も鳥というものを神聖視していたから、天帝の使者としての鳥の形を、戦場であらわすことにより、天命をえようとしたにちがいない。
つまり、鶴翼の陣とは、天下を制する者の陣である。
六韜のなかに「烏雲の陣形」というめずらしいものがある。
鳥(からす)や雲のように散ったかかと思えば、またたくまに集まる、無限に変化する陣形のことである。
鳥陣はもしかするとこれかもしれない。
長蛇はあきらかに孫子という兵法書にある「常山の蛇」から発想された陣形である。
常山にいる蛇を撃とうとして、クビを撃てば尾が襲ってくる。尾を撃てば首がくる。
あいだを撃てば首と尾がそろって襲ってくる。
そういう陣形をいう。
わたしは「鳴条の戦い」を小説に書くとき、商軍と戦った夏軍を魚鱗の陣であると想像した。
夏王朝は魚が神であったとおもわれたからである。
』
● 「孫子の兵法」復元模型
『
春秋時代の軍師
春秋時代の前期から中期までは、北の普、南の楚の南北対決、中国の特徴的様相であった。
その両大国は3度の決戦をおこなっている。
はじめの激突は、紀元前632年で、戦場は濮水の南の城濮(じょうぼく)であったので、
「城濮の戦い」
と、よばれる。
普の文公と楚の成王との戦いでもあったのだが、普が大勝した。
その勝利により普が中国の盟主の国になるきっかけをつかんだ重要な戦いでもある。
つぎの衝突は、紀元前597年で、戦場は黄河南岸の邲(ひつ)である。
「邲の戦い」
は、普の景公と楚の荘王の戦いでもある。
これは普が惨敗した。
楚が中国の覇権を名実ともに把握したのは荘王のときだけである。
それほどこの王はすぐれていた。
最後の決戦は、紀元前575年で、場所はイ水の北岸の鄢陵(えんりょう)である。
「鄢陵の戦い」
は、晋の厲公と楚の恭王の戦いであり、普の勝利となる。
ついでにいえば、厲公は景公の子であり、恭王は荘王の子である。
じつはこの戦いの前に、それぞれの国で内乱があり、普の名門である伯宗の子の伯州犂(はくしゅうり)は楚へ亡命し、楚の名門である賁皇(ふんこう)は普に亡命していた。
賁皇は普で苗(びょう)とういう食邑をあたえられるので、苗賁皇とよばれる。
おもしろいことに、鄢陵の戦いのときに、伯州犂は楚の軍師に、苗賁皇は普の軍師になるのである。
この戦いは史記の「普世家」と「楚世家」 に、『春秋左氏伝』の「成公16年」をつきあわせて読むと、春秋期の戦争が目の前に展開されるように感じられるほど詳細があきらかになる。
伯州犂に対する苗賁皇は、おそらく天才兵法家ではないかとおもわれる。
春秋時代は占いによって開戦か否かを決するので、戦法、戦術の幅が狭い。
が、春秋前期にあっては普の「士会」が、中期にあっては「苗賁皇」が兵法においてすぐれている。
後期になってついに、呉に「孫子」、すなわち孫武があらわれるのである。
』
『
馬陵の戦い
中国の戦国時代は、文字通り戦いに明け暮れていた時代である。
無数にある大小の戦いのなかで、もっとも劇的であるのが、
「馬陵の戦い」
である、といっても、異論を唱える人はさほど多くはあるまい。
馬陵の戦いは戦国時代の中期にあたる。
後期にはいると、秦軍と趙軍が戦った「長平の戦い」がある。
そこではなんと趙兵の40万が秦軍に降伏し、しかも全員生き埋めにされた、という。
そういうすさまじい数の死者を、馬陵の戦いはもっていないにもかかわらず、史記の「孫子呉起列伝」を読んだ人は、馬陵の戦いに到って、おもわず息をのんだにちがいない。
それは斉軍と魏軍の戦いでありながら、「孫濱と龐涓」という兵法の天才同士の知略の凌ぎ合いであり、かつ二人は同じ先生について兵法を学んだという過去をもち、さらに孫濱の才知を恐れた龐涓が、孫濱に罪を着せたにもかかわらず、刑罰によって足を失った孫濱が脱出し、復讐の機をうかがうという情念の葛藤を含み、ついに馬陵において爆発する怨讐の火が、龐涓にむかって飛ぶ一万本の矢として表現されるみごとさは、殺伐とした二国の戦いから昇華されたところにある。
司馬遷が戦いの描写に優れているのは、彼自身が兵法にすくなからぬ興味をいだいていたせいでもあるが、それにしても馬陵の戦いに投入された詞華は、列伝のなかでもひときわ鮮やかである。
それはそれとして、1972年に、中国の山東省で前漢初期の墓が発見され、そこから『孫濱兵法』があらわれたのである。
その兵法書はむろん孫子として名高い兵法家の書物とはあきらかに違っていたので、『孫子』は春秋時代の後期に呉の将軍となった孫武によって書かれたものであると断定されることとなった。
その『孫濱兵法』を読んで愕然とすることは、なんと孫濱が龐涓に勝ったのは馬陵の戦いではなく、「桂陵の戦い」である、ということである。
--孫子息(いこ)わずして之を桂陵に撃ち、龐涓をとりこにす。
そのなかの一文はそうなっている。
桂陵の地をまたは馬陵というのではないかと考える人がいるかもしれないが、それはこじつけであり、ふたつの地はやはりちがう。
そうなると
「馬陵の戦い」は実際にはなく、司馬遷の頭の中にだけあった戦い
なのであろうか。
』
春秋時代の軍師
春秋時代の前期から中期までは、北の普、南の楚の南北対決、中国の特徴的様相であった。
その両大国は3度の決戦をおこなっている。
はじめの激突は、紀元前632年で、戦場は濮水の南の城濮(じょうぼく)であったので、
「城濮の戦い」
と、よばれる。
普の文公と楚の成王との戦いでもあったのだが、普が大勝した。
その勝利により普が中国の盟主の国になるきっかけをつかんだ重要な戦いでもある。
つぎの衝突は、紀元前597年で、戦場は黄河南岸の邲(ひつ)である。
「邲の戦い」
は、普の景公と楚の荘王の戦いでもある。
これは普が惨敗した。
楚が中国の覇権を名実ともに把握したのは荘王のときだけである。
それほどこの王はすぐれていた。
最後の決戦は、紀元前575年で、場所はイ水の北岸の鄢陵(えんりょう)である。
「鄢陵の戦い」
は、晋の厲公と楚の恭王の戦いであり、普の勝利となる。
ついでにいえば、厲公は景公の子であり、恭王は荘王の子である。
じつはこの戦いの前に、それぞれの国で内乱があり、普の名門である伯宗の子の伯州犂(はくしゅうり)は楚へ亡命し、楚の名門である賁皇(ふんこう)は普に亡命していた。
賁皇は普で苗(びょう)とういう食邑をあたえられるので、苗賁皇とよばれる。
おもしろいことに、鄢陵の戦いのときに、伯州犂は楚の軍師に、苗賁皇は普の軍師になるのである。
この戦いは史記の「普世家」と「楚世家」 に、『春秋左氏伝』の「成公16年」をつきあわせて読むと、春秋期の戦争が目の前に展開されるように感じられるほど詳細があきらかになる。
伯州犂に対する苗賁皇は、おそらく天才兵法家ではないかとおもわれる。
春秋時代は占いによって開戦か否かを決するので、戦法、戦術の幅が狭い。
が、春秋前期にあっては普の「士会」が、中期にあっては「苗賁皇」が兵法においてすぐれている。
後期になってついに、呉に「孫子」、すなわち孫武があらわれるのである。
』
『
馬陵の戦い
中国の戦国時代は、文字通り戦いに明け暮れていた時代である。
無数にある大小の戦いのなかで、もっとも劇的であるのが、
「馬陵の戦い」
である、といっても、異論を唱える人はさほど多くはあるまい。
馬陵の戦いは戦国時代の中期にあたる。
後期にはいると、秦軍と趙軍が戦った「長平の戦い」がある。
そこではなんと趙兵の40万が秦軍に降伏し、しかも全員生き埋めにされた、という。
そういうすさまじい数の死者を、馬陵の戦いはもっていないにもかかわらず、史記の「孫子呉起列伝」を読んだ人は、馬陵の戦いに到って、おもわず息をのんだにちがいない。
それは斉軍と魏軍の戦いでありながら、「孫濱と龐涓」という兵法の天才同士の知略の凌ぎ合いであり、かつ二人は同じ先生について兵法を学んだという過去をもち、さらに孫濱の才知を恐れた龐涓が、孫濱に罪を着せたにもかかわらず、刑罰によって足を失った孫濱が脱出し、復讐の機をうかがうという情念の葛藤を含み、ついに馬陵において爆発する怨讐の火が、龐涓にむかって飛ぶ一万本の矢として表現されるみごとさは、殺伐とした二国の戦いから昇華されたところにある。
司馬遷が戦いの描写に優れているのは、彼自身が兵法にすくなからぬ興味をいだいていたせいでもあるが、それにしても馬陵の戦いに投入された詞華は、列伝のなかでもひときわ鮮やかである。
それはそれとして、1972年に、中国の山東省で前漢初期の墓が発見され、そこから『孫濱兵法』があらわれたのである。
その兵法書はむろん孫子として名高い兵法家の書物とはあきらかに違っていたので、『孫子』は春秋時代の後期に呉の将軍となった孫武によって書かれたものであると断定されることとなった。
その『孫濱兵法』を読んで愕然とすることは、なんと孫濱が龐涓に勝ったのは馬陵の戦いではなく、「桂陵の戦い」である、ということである。
--孫子息(いこ)わずして之を桂陵に撃ち、龐涓をとりこにす。
そのなかの一文はそうなっている。
桂陵の地をまたは馬陵というのではないかと考える人がいるかもしれないが、それはこじつけであり、ふたつの地はやはりちがう。
そうなると
「馬陵の戦い」は実際にはなく、司馬遷の頭の中にだけあった戦い
なのであろうか。
』
【付:孫臏兵法wikipedia】
『
孫臏兵法
●1972年出土于山东省临沂市银雀山的《孙膑兵法》竹简,现藏于山东博物馆
孫臏兵法(そんぴんへいほう)は紀元前4世紀頃の中国戦国時代の斉の武将 孫臏(孫ピン)が著したとされる兵法書。
なお、過去においてはいわゆる『孫子』の兵法書について、孫武が著したものであるという説と孫臏が著したものであるという説が存在していたが、この『孫臏兵法』が発見されたため前者であることが現在ではほぼ確定している。
1972年4月、中華人民共和国の山東省において、漢代の墓が二つ並んで発掘された。
ただちに山東省博物館から来た専門家が検証した。
後に銀雀山漢墓と称されるようになるこの現場で発掘された、竹簡形式の多数の書物の中で竹簡孫子に『孫臏兵法』が発見された。
書物と同時に発掘された古銭の形状、および同時に発掘された漢武帝元光元年歴譜から、年代がおおよそ紀元前134年~118年と推定された。
『孫臏兵法』は竹簡440枚、全30篇にわかれている。
原文においてはそのうち21篇に篇名が記されていた。
詳しくは、金谷治訳注『孫臏兵法 もうひとつの孫子』(ちくま学芸文庫、2008年)
』
『
史記 東周列国 孫月賓(そんびん)と广龍涓(ほうけん)
http://www.youtube.com/watch?v=FIizf9FZ4Qg
』