2012年9月9日日曜日

:未来への胎動

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● 2005/08/25[2005/07/20]



 人民代表大会選挙には、大きな制度的制約がある。
 自薦候補は、立候補するのは自由だが、「正式候補」になるのは難しい。
 そこには巧みな「参入障壁」が設けられている。
 また、正式な候補者を確定するのは、選挙委員会であるが、そのトップはすべて党と政府関係者であり、選出プロセスは公表されない。
 現状では、候補者決定に党が介入することをやめなければ、人民代表大会が真の議会になることはない。
 選挙民は、等の利益を代表する候補者からしか選べないのである。
 問題は、それが一党支配に有利であっても、民意を政治に繁栄させることは制度的に難しいということだ。
 最終的には、政治と民意の距離を広げ、摩擦が増え、執政能力を削ぐことになる。

 「中国には政治化はいない。いるのは官僚だけだ
と言われる。
 中国の人民代表大会は、官僚が支配するぎかだ。
 ここでいう官僚とは、党・政府・人民団体(党の指導下にある団体)の幹部だけでなく、国有企業や事業単位(病院・研究所・学校・メデイア)の幹部も含む。
 全国人民代表大会代表(全人代。国会議員に相当)は、7~8割が官僚である。
 
 これまで中国は、経済成長が続いてきたため、
 「民主化を断行すれば、混乱に陥り、経済成長も止まる」
という議論が主流を締めてきた。
 だが、民主化を後回しにした「ツケ」が明らかになりつつある。
 民主化の遅れがむしろ経済成長の足を引っ張る可能性が見えはじめたのである。

 上からの統治は膨大なコストを必要とする。
 末端まで統治するには、行政の肥大化は避けられない。
 その結果、政府の権限は無制限に膨張し、腐敗も悪化する。
 さらに行政機関の運営を維持するために、農民からの費用徴収も増える。
 徴収しないならば、今度は負債が増えていくだけになる。
 すでに医療、教育、衛生などの公共サービスが提供できず、自己負担が重いたMジェ、農村政権は統治能力を失いつつある。
 このまま報知すれば、統治能力のさらなる低下と民衆の反乱は必死だ。
 すでにその長江は見え始めている。
 これからは、「民衆による自治」しかないという見解は、かなりの指示を得つつある。
 ただ、現実問題として、これまであらゆる権限を党に集中してきたために、民主化に踏み切れば混乱も生じるという懸念があることも確かだ。
 最後に残る問題はやはり、一党支配と民衆の自治との軋轢だろう。
 「党が選挙を指導する」ということからわかるように、党はあくまでも「統制下の民主」を求めている。
 民主化についても必要は認めているが、あくまで「党内民主」の範囲のものである。
 「党外民主」はタブーだ。
 果たして、それで民主化要求の流れに対応できるかどうか。
 そこがこれからの焦点になってくる。

 1978年に鄧小平が「改革開放政策」を打ち出して以来、中国は輝かしい経済成長を達成した。
 実質国内総生産(GDP)は約9倍になっている。
 貿易額は、世界ランキングで32位から3位(2004年)にのし上がった。
 このような改革のメリットを実感できた80年代後半まで、民衆の絶対多数は明らかに「改革」を支持していた。
 だが、90年代に入ると状況が変わってくる。
 経済格差が広がるにつれ、「改革とは何なのか」という超えが出てきたのである。

 「計画経済を継続しようとする」勢力は見えやすい。
 貧しいが平等に見えた毛沢東時代を懐かしむ「左派」だ。
 むしろやっかいなのは、「改革の名目で民衆から略奪する」勢力だ。
 前者は保守派、後者は改革派と呼ばれるだけに騙されやす。
 「改革の名目で略奪する」行為は、国有企業改革が典型である。
 改革の旗印を掲げ、国有企業を官僚や取り巻きが私物化し、労働者はリストラの憂き目をみる。
 開発や都市化をスローガンに地上げで儲ける役人たちもそうだ。
 経済成長の陰で、民衆は強引な地上げの犠牲になっている。

 人々が改革に希望を失い、半改革勢力の側に立てば事情は複雑になる。
 改革初期には改革にメリットがあると思っていたが、今は果たしてそうだろうか、と。
 「改革」が疑われ始めた原因は、まず第一に「収入格差の拡大」である。

 「民意の分裂」を招いている根本原因は、経済と政治のズレである。
 改革のゆがみは、明らかに硬直化した政治体制がもたらしたものだ。
 経済が市場化している一方で、政治は相変わらず計画経済時代の中央集権・官僚支配型である。
 政治は官僚支配で計画経済のままで、経済だけを市場経済化しようとしているのである。
 この体制で中国は市場経済化が可能なのか。
 民間企業が自由に発展する土壌がないまま、果たして市場経済が成立するのだろうか。
 「改革」を真の改革にするには、市場経済に見合った政治体制が必要である。
 それはおそらく、法治に裏付けられた民主政治だろう。

 毛沢東・鄧小平・江沢民といった歴代の共産党指導者は、すべて三権分立を資本主義的として否定してきた。
 胡錦濤も例外ではない。
 彼らは三権分立を現行の政治体制と敵対する「西側」の概念として危険視している。
 その理由は簡単だ。
 立法・行政・司法が独立し、壮語にチェックしあう体制は、共産党一党独裁体制を根底から覆すものだからである。
 党から独立した三権は存在してはならないのだ。

 これまで、「中国は政治体制を変えなくても成長は維持できる」という見方が内外でかなりの説得力をもってきた。
 高度成長が続き、そのため政治改革の必要性は忘れ去られていたのである。
 だが、社会のあらゆる局面で独裁のほころびが顕在化しつつある。
 官僚による「政治独裁」が「経済独裁」を生み、「政治は独裁、経済も独裁」という現象が蔓延している。
 それが民間企業の発展をさまたげ、民衆の権利も侵害しているのである。
 
 中国共産党が「安定第一」と強調するのは、「経済成長のために安定が必要、したがって’独裁が必要」というロジックである。
 つまり、「民主化=不安定」ということだ。
 独裁が高度経済成長を維持してきたのであれば、維持できなくなったときは独裁も存在意義を失うということになる。

 在米中国人学者は次のように指摘する。

 党国家における支配政党の弱体化は、国家のパワーを枯渇させる。
 そうした国家の不能は、極限に達すれば「失敗国家」(failing state)になる。
 失敗国家は、治安、教育、医療、環境保全、法執行などの基本的なサービスを提供する能力がない。
 中国では過去20年間、ますますそうなってきている。
 中国経済がブームのなかにあるときにこういう現象が起きているという事実は、特に危険である。


 独裁は、国民に十分な公共サービスを提供できてこそ求心力を維持できる。
 それがなくなると、残されるものは「剥き出しの権力」だけだ。
 そのとき、膨大な統治コストが必要になる。
 抑圧のための官僚機構も肥大化する。

 独裁の最大の弊害は、ヒト・モノ・情報の流れが遮断されることにある。
 民間企業が自由なネットワークで連携できなければ、技術革新も企業家も生まれない。






[ ふみどころ:2012 ]



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