_
● 1996/07/25[1992/07/07]
『
読者へ
古のローマは、多い時で30万にものぼtる神々が棲んでいたという。
一神教を奉ずる国々から来た人ならば眉をひそめるかもしれない。
八百万(やおよろず)の国かた来た私には、苦になるどころかかえって愉しい。
古代ローマの心臓部であったフォオ・ロマーノの移籍の崩れた石柱にでも座って、ガイド・ブックの説明書を開いているあなたの肩越しに、なにか常ならぬ気配を感じたとしたら、それは、生き残った神々の中のいたずら者が背後からガイド・ブックをのぞいているからなのだ。
自分たちのことを二千年後の人間はどのように書いているのかを知りたくて。
「いや、わたしがきちんと書きますよ」
と言ったかどうかは知らないが、エドワード・ギボンは。フォロ・ロマーノを訪れたがために大作『ローマ帝国衰亡史』を書くことになり、青年アーノルド・トインビーは、古代のローマを求めてイタリア中を自転車で旅することになった。
この二大歴史家とは比びようもないほどに小さな存在である私たちとて、ローマを訪れれば、いや古代ローマ人の足跡、北アフリカでも中東でもヨーロッパでも、彼らが遺した足跡を訪れれば、ごく自然に考えるようになるのではないか。
古代のローマ人とはどういう人達であったのだろう、と。
知力では、ギリシャ人に劣り、
体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、
少なくない資料が示すように、ローマ人自らが認めていた。
それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。
一大文明圏を築きあげ、それを長期にわたって維持することができたのか。
またそれは、ただたんに広大な地域を領有を意味し、大帝国を築くことができたのも、そしてそれを長期にわたって維持することができたのも、よく言われるように、軍事力によってのみであったのか。
そして彼らさえも例外にはなりえなかった衰亡も、これまたよく言われるように、覇者の陥りがちな驕りにやったのであろうか。
これらの疑問への解答を、私は急ぎたくない。
人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史に対して、手軽に答えを出しては失礼になる。
また、私自身からして、まだはっきりとはわかっていないのである。
史実が述べられるにつれて、私も考えるが、あなたも考えて欲しい。
「なぜ、ローマ人だけが」と。
それでは今から、私は書きはじめ、あなたは読みはじめる。
古代のローマ人はどういう人たちであったのか、という想いを共有しながら。
1992年 ローマにて 塩野七生
』
『
序章
紀元前167年、衰退しつつあったギリシャから、一千人の人質がローマに連れてこられた。
いずれも、ギリシャでは社会的な立場の高かった人々である。
その中に、36歳になっていたポリビウスがいた。
紀元前150年、ギリシャの人質たちに、祖国への帰還がゆるされた。
17年前の一千人は、三百人に減っていた。
この年に同胞とともに帰国したポリビウスだったが、その後もしばしなローマを訪れている。
前149年からはじまって3年間続いた第3次ポエニ戦役には、総司令官に選ばれていたスキピオに同行した。
7日7晩燃え続けたというカルタゴの終焉も、現場にいて実際に見たのである。
ポリビウス、57歳の年であった。
それから82歳で死ぬまでの20年あまりの間に、40章からなる『歴史』は書かれたとされる。
これまでの歴史作品がギリシャを中心とする東地中海世界を主としてあつかっていたのに比べ、ポリブウスの『歴史』は、ローマに眼を向けた、それも実証的な立場から焦点を当てた、最初の歴史作品になった。
ローマを物語った信頼のおける本格的な歴史の第一作は、こうして他国人であるギリシャ人によってかかれたのである。
なぜギリシャは自壊しつつあり、ギリシャは興隆しつつあるのか。
彼は、なぜ、という問を発する。
この問いが、彼に『歴史』を書かせた。
ポリビウス自身、序文の中で次のように言っている。
「
よほど愚かでよほどの怠け者でないかぎり、このわずか53年間にローマ人がなしとげた大事業が、なぜ可能であったのか、またいかなる政体のもとで可能であったのかについて、知りたいと望まない者はいないであろう
」
ボリビウスは53年間と明記している。
おそらくそれは、、紀元前202年にハンニバルの敗北で終わった第二次ポエニ戦役から、前146年のカルタゴの滅亡で終わる第三次ポエニ戦役の最初の年までを数えてのことだろう。
この50年あまりの間に、ローマは地中海の覇者になったのである。
実際、これ以降の地中海世界の歴史はローマの歴史とイコールになる。
しかし、ローマは、53年前に突如出現したのではない。
ギリシャ人の注目は浴びなかったにしても、ゆえに歴史を書こうと考えた外国人があらわれなかったとしても、ザマの戦闘より500年以上も昔にさかのぼらねばならない、長い助走の歳月をもっていた。
五十数年ではなく、五百数十年 である。
ろーまはやはり、一日では成らなかったのだ。
連作の第一作になる本書では、ローマの建国からはじまって第一次ポエニ戦役直前までの500年間をとりあげる。
好調の時期ですら一歩前進半歩交代と評してもよいくらいで、悪くすると十歩も二十歩も後退してしまい、元に戻るまでに数十年を要するという、苦労の絶えない長い歳月の物語になる。
だが、後にローマが大をなす要因のほとんどは、この500年の間に芽生え育まれたのである。
青少年期になされた蓄積が、30にして立った ときにはじめて真価を問われるのに似て。
(注:抜粋である)
』
[ ふみどころ:2012 ]
__