2012年9月28日金曜日

:抜き書き(2)

_
 
● 1996/07/25[1992/07/07]





 戦略は、政略でもあるのだ。
 いや、政略でなければならないのである。

 現代のわれわれが疑いもせずに最善策と信じている二大政党主義は、信じているほどの最善策であろうか。
 現代では最も長命な組織であるカトリック教会は、典型的な抱き込み方式を踏襲してきた組織である。

 実現の手段となると対立してしまうが、手段なるものを大別すると、次の二つに分かれるかと思う。
 第一は「民意優先」派としてもよい考えをもつ人々である。
 主権在民であるのだから、国民の意を反映させながら公共の利益をたっせいすべきである、と考える人々である。

 第二は「公益優先」派としてもよいかと思う。
 公益こそが何にもまして優先さるべきと考える人々で、民意の繁栄はかならずしも公益の向上をもたらすとは限らない、と考える人々である。
 アメリカ合衆国の二大政党が現在でもこの意味を踏襲しているとはいわないが、名称だけならば民主党を「民意優先党」、共和党を「公益優先党」とでも訳していたらなら、もっとはっきりしたであろうと思う。

 人類はしばしば、先見性に富む人物を生んできた。
 彼には先が見えるから、現在なにをなすべきかがよくわかる。
 しかし、認識しただけならば、先見性をもった知識人、で終わってしまう。
 見え、りかいしたことを実行に移すには、権力が必要だ。
 マキアヴェッリも、「武器をもたない預言者は自滅する」と言っている。
 トロイの女王カッサンドラは、ギリシャ勢によるトロイの滅亡を予見し、それを防ぐための対策をトロイ人に説いたが、誰からも相手にされなかった。
 ユーロッパでは今でも、せっとくさえすれば聞き入れられると信じている人を「カッサンドラ」と呼ぶ。

 それで権力の獲得が先決問題となってくるのだが、どうやって権力を築くかには、その次代の流れがどの方向に、しかも大波になって向かっているかを察知する能力が求められる。

  古代ローマの通史を物語る歴史書となると、ひとつの例外もなく、王政から共和政に移行したとたんに共和制ローマの政治システムについての説明が、親切なものなら図表入でなされるのが通例になっている。
 だが、私はあえて、この方法をとらない。
 このやり方は私には、当時のローマの実情を映していないと思えたからである。
 前509年に共和政に移行したとたんに、ローマは整然とまとまった政治制度を確立し、それを有機的に機能させていたかのような印象を与えやすい。
 ところが、実際のローマ人は、前369年にいたるまでの長い歳月、種々の条件が整わなかったとしても、模索に次ぐ 模索を重ねてきたのである。

 ローマ人には、敗北から必ず何かを学び、それをもとに既成の概念にとらわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことから再び起き上がる性向があった。
 負けっぷりが、良かったからではない。
 負けっぷりに、よいも悪いもない。
 敗北は、敗北であるだけなのだ。
 重要なのは、その敗北からどのようにして起ち上がったか、である。
 敗戦処理をどのようなやり方でしたのか、である。

 ローマ人は保守的であったというのが定説になっている。
 だが、真の保守とは、改める必要があることは改めるが、改める必要のないことは改めない、という生き方ではないだろうか。

 人間世界では、はじめから遠い将来まで見透し、それに基づいていわゆる百年の計を立て、その計を実行に移せる人間は多くはない。
 少ないから天才なのだ。
 天才以外の人間は、眼前の課題の解決 だけを考えて方策を立てる。
 だが、ここからは進路は二つに分かれる。
 眼前の課題解決のみを考えて立てた方策を実行したら、結果としてそれが百年の計になっていたという人と、眼前の課題は解決できたが、それは一時的な問題解決にすぎなかった、という人の二種類だ。
 後者の偶然は偶然でとどまるが、前者の偶然は必然になる。
 歴史上の偶然が歴史的必然に変わるのは、それゆえに人間の所業によってである。
 後世から見れば歴史的必然と見えることのほとんどは、当時は偶然に過ぎなかったのだ。
 その偶然を必然に変えたのは、多くの場合人間である。
 ゆえに、歴史の主人公は、あくまでも人間なのである。
 
 敗北を喫した後のローマ人の態度は、時代を越えて次の3点に要約される。
①.第一に敗軍の将は罰せられない。
 現代の我々ならは、失地挽回の機会を与えるためと考えるところだが、ローマ人はそのように考えて敗軍の将の責任を問わなかったのではない。
 自分の勝利は、自分が属している共同体(レス・プブリカ)が勝ってはじめて成就するものとローマ人は考えていた。
 それゆえに、共同体内で自分に課された任務に失敗した人間は、身も世もない恥辱に苦しむことになる。
 解任したり罪に問う必要はないのだ。
 恥に苦悩するという罰を、十分に受けたからである。
 名誉心を徳の第一と考えたローマ人にしてはじめて、名誉を失うことが何より重い罰になるのだ。
②.敗戦処理の第二は、新戦術の導入だった。
 <<略>>
③.それまで進められていたローマの基本政略、一段とその有効性を自覚しての継続であった。
 <<略>>
 古代から現代にいたるまで、歴史家たちがこぞって認めるローマ人の特質の一つは、敗北を喫しても、その害を最小限にとどめる才能と、勝てば買ったで、その勝利を最大限に活用する才能である。

 同盟関係にあった国が離反する場合、その国に独立独歩でいける力ができたから離れたというのは実にまれな場合に限られる。
 多くの場合は、別の強国に ついたほうが得だと思った結果だ。
 それゆえに、覇権国家は、常に自分のほうが強いと示し続ける宿命を持つ。

 歴史を叙述していくうえでの難しさは、時代を区切って明確に、この時代には何がなされ、次の時代には何がなされたと書くことが、戦記であってさえ不可能なところにある。
 不可能である理由の第一は、ほとんどの事柄が重なりあって進行するからである。
 理由の第二は、後で大きな意味をもってくる事柄でも、
 偶然な出来事という形をとってはじまる場合が多いからである。

 歴史は必然によって進展するという考えが心理であると同じくらい、
 歴史は偶然のつみ重ねであるとする考えも心理になるのだ。

 こうなると、歴史の主人公である人間に問われるのは、悪しき偶然はなるべく早期に処理することで脱却し、
 良き偶然は必然に、おっていく能力ではないだろうか。

 多くの遅咲きの感があるローマ人が、他の民族と比べて優れていたとしてもよいのは、この面の才能ではなかったかと思われる。




[ ふみどころ:2012 ]



__