2012年9月28日金曜日

:ひとまずの結び(後半)

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● 1996/07/25[1992/07/07]





 なぜ二千年も昔に生きた人間のローマ観のほうが、私にはしっくりくるのか。
 この問題は、私をずいぶんと長い間考えこませた。
 それでもこの頃では、次の4点に要約されるのではないかと思いはじめている。

①.第一は、ローマの興隆の因を精神的なものにもとめなかった、三人の態度である。
  私自身も以前から、興隆や衰退の原因を感性的なことに求める態度をとっていない。
 つまり、興隆は当事者たちの精神が健全であったからであり、衰退はそれが堕落したからだとすつる論法に納得できないのだ。
 それよりも私は、興隆の因は当事者たちが作り上げたシステムにあると考える。
 なぜなら、人間の気分ほど同様しやすいものはなく、気分を一新してくださいなどと説いても、なかなか全員で一新できるものではない。
  一新するには、一新」せざるをえないようにする、つまりシステム化してしまうしかない、と思うからである。

②.第二は、彼ら三人はキリスト教の普及以前に生きたのだから当たり前にしても、私もまらキリスト教信者ではないということである。
 キリスト者でなければ、キリスト教の倫理や価値観から自由でいられる。
 例えば、イエスは、信じる者こそ幸いなれ、 と言った。
 私も、信ずることで心の安定を得ることは大事なこととは思うが、「なぜ」、問いかける姿勢は捨てることができない。
 「貧しきものこそ幸いなれ」、というイエスの教えの優しさは分かるが、
 「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」
としたペリクレスのほうに同感なのだ。
 また、
 キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通してみたのでは書けない、
とも思っている。

 中世時代の考えを色濃く遺しているダンテだが『神曲』の中で、その言行に罪があるとして地獄に落としたのは、悪しきキリスト教徒だけである。
 「キリスト教以前に生を受けたゆえに真の信仰を知らないで死んだ」と評されても、異教徒たちは、ホメロスでもソクラテスでもアリストテレスでも、ローマ共和政の創始者プルータスでもカエサルでも、みな地獄の外側の陽光の下に場所を与えられている。
 ダンテでさえ、古代人とキリスト教徒を同列には論じなかった。

③.第三は、これはまた知らないで死んでしまった彼らには当然の話にしても、フランス革命によって打ち上げられた「自由・平等・博愛」の理念に、この人々は少しも縛られていないという点である。
 理念に邪魔されないですむから、現実を直視することも容易になる。
 「こうあらねばならない 」という想いが強くなればなるほど、それとは理念的に相容れない体制に良い面があっても、理念的に相容れない体制があるというだけで、そのよい面にさえはじめから視線が向かないのだ。

 それなのにハリカルナッソスのデイオニッソスにいたっては、ペリクレスとアウグストウスを同列に視して賞賛している。
 英明な指導者に治められたときの国家は、いかに幸福に運営されるかとの例としてでである。
 だが、、今、この二人を同列視して論じた学生がいたとしたら、歴史の教師は迷うことなく落第点をつけるでだろう。
 ペリクレスはアテメの民主政の旗手であり、アウグストウスは帝政ローマの創始者なのだから、革新と保守を同列に考えるなどもってのほか、というわけである。
 しかし、自由と平等という高尚であることは疑いのない理念を、ひとまずにして脇に置いて考えてみるとしたらどうだろう。
 アテネの民主政が機能したのはペリクレスの指導がよかったからであり、ローマの帝政が「パクス・ロマーナ」を築きあげたのはアウグストウスの力によったのである。
 万民の幸福に寄与したということならば、民主政も帝政もなくなって善政だけが残る。
 古代人も、このように考えたのではないかと思う。
 ちなみに、古代のペリクレス評価は優れたリーダーとしてのそれであって、民主主義のチャンピオン視されるようになったのは、フランス革命を経て後の話である。

 私自身についていえば、フランス革命を経た現代に生きているとはいえ、自由・平等・博愛を高らかに唱えれば唱えるほど、自由・平等・博愛の実現から遠ざかるのはなぜか、という疑問を抱き続けてきた。
 歴史は、この理念を高らかに唱え追及し熱心であった民族では実現せず、一見反対の行き方を選んだ民族では、完全ではないにしても実現できた事実を示している。
 私などはこの頃、20世紀末のこの混迷は
 「フランス革命理念の自家中毒」
 の状態ではないか、とさえ思うようになっている。
 

④.第四にあげるのは、二千年の昔ギリシャ人三人の考えに私がなぜしっくり感じたかの理由は、「問題意識の切実さ」にあったのではないかと思う。

 彼ら三人とも、それぞれ立場は違っても、あれほども高度な文化を築いたギリシャが衰退し、なぜローマは興隆を続けるのか、と問いかけた点では一致していた。
 彼ら自身が衰退したギリシャ民族に属していたから、この問題は切実な意味をもっていたのである。
 まるで、つい先ごろまで躍進に次ぐ躍進をつづけていた日本に対し、欧米人が、なぜ日本が、と問けかけた現象と似ている。
 ローマ人リヴィウスの著作態度には、当然ながら、この種の切実さは欠けている。
 彼の著作に欠けているこの種の切実さは、日本人の書く日本人論を思い浮かべるだけで十分と思う。
 ならば、三人のギリシャ人がいだいていたと同じたぐいの切実さを、私も持っているのかと問われれば、答えはやはり否である。
 ただ、なぜローマが、という問いかけへの執着ならば共通している。

 私は常々、軍事力だけで一千年間も、あれほど多くの民族を押さえつづけていかれるはずはない、と考えてきた。
 そして、この疑問に対して、それを解くヒントをはじめて与えてくれたのが、現代の歴史学ではなく、二千年も昔に生きた三人のギリシャ人の言ったことであった。

 ローマ興隆の要因について、三人のギリシャ人は、それぞれ次のように指摘している。

1.ハリカルナッソスのデイオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。
 人間を律するよりも人間を守護する型の宗教であったローマの宗教は、狂信的傾向がまったくなく、それゆえに他の民族とも、対立関係よりも内包関係に進みやすかったからだろう。
 他の宗教を認めるということは、他の民族の存立を認めるということである。

2.自身が政治指導者であったポリビウスとなると、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあった、と考える。
 王政、貴族政、民主政という、それぞれが共同体の一部利益を代表しがちな政体に固執せず、王政の利点は執政官制度によって、貴族政の利点は元老院制度 によって、民主政のよいところは市民集会によって活用するという、ローマ共和政独自の政治システムに、興隆の因があるとしたのであった。
 なぜなら、この独自の政治システムの確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたからである。

3.一方、プルタルコスとなると、ローマ興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない、と明言している。
 プルタルコスに生国ギリシヤでは、ギリシャ人以外の民族はバルバロイ(蛮人)と呼ばれただけでなく、ギリシャ人同士の間でも、スパルタに生まれた者がアテネの市民権を取得することばど問題外だった。
 一方ローマでは、どこに生まれようと問題にならず、ローマ市民権の有無だけが問われたが、これも拡大の傾向にあった。
 ある時期までは、ローマに住むだけで市民権が取得できたのである。
 ただし、ローマ人のこの面での寛容は、勝たないで譲るのではなく、「勝って譲る」であったのだが。
 
 これら三人の史家の指摘は、私には三人とも正しいとおもわれる。
 それどころか、ローマの興隆の要因を求めるならば、この3点全部であると思うのだ。
 なぜなら、デオニッソスのあげた宗教、ポリビウスの指摘した政治システム、プルタルコスの言う他民族同化の性向はいずれも、古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである。

  知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴに劣っていたローマ人が、これらの民族に優れていた点は、何よりもまず、彼らの持っていた開放的な性向にあったのではないだろうか。
 ローマ人の真のアイデンテイテイを求めるとすれば、それはこの開放性ではなかったか。

 軍事力や建設面での業績は、それを確実にするためになされた表面に現れた現象であって、それだからこそ、ローマの戦士の軍靴の響きはとうの昔に消え、白亜に輝いた建造物の数々も瓦礫の山と化した現代になってなを、人々は遠い昔のローマを、憧れと敬意の眼差しで眺めるのをやめないのではないだろうか。
 古代ローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年たってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうとも人種や肌の色が違おうと同化してしまった、かれらの開放性ではなかったか。
 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、多民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。
 「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである。

 日本では「栴檀はニ葉より芳し 」と言う。
 イタリアでは、「薔薇ならば薔薇の花が咲くだろう」という。
 この巻であつかった時代のローマは、ニ葉の頃よりは少しは成長したにしても、人間に例えれば30歳に達したかどうかという年頃までのローマだ。
 三十にして立ったローマが、どのような試練に直面し、それをどのように乗り越えていったかを、次巻では物語るつもりでいる。





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