2012年11月27日火曜日

:ハンニバルのアルプス越え

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● 1993/10/10[1993/08/07]




 冒険好きだけでは、冒険はできない。
 そうなると、なぜアルプス越えを強硬したのか、という疑問が頭をもたげてくる。
 結論を先に言えば、ハンニバルには他に選択の余地がなかったのだと思う。
 戦場は、ローマの地元、イタリアでなければならなかった。

 同時代人に比べて彼が断じて優れていたのは、情報の重要性に着目していたことである。
 イタリア側に住むガリア人もフランス側に住むガリア人も、家畜などを連れてアルプスを越えて往来していたことをハンニバルは知っていた。
 ハンニバルは、原住民であるガリア人のやっていることを、大群を率い象まで連れるという、大規模な形で実行しようとしたのである。
 この「アルプス越え」は、冒険であっても、冷静な計算のうえに立って実行された冒険であった。

 ハンニバルの行動を相当な程度に追うことができるのは、アレクサンダー大王に見習ったのかハンニバルが記録者を同行したからである。
 ハンニバルのギリシャ語の教師でもあったその男は、シレヌスという名のギリシャ人であった。
 一方、ローマ側にも記録者がいる。
 ハンニバルとは完全に同時代人で、元老院議員を務めていたファビウス・ピクトルだった。
 ただし、この二人の著作は現存していない。
 とはいえ、古代人なら読めたのだ。
 ハンニバルが46歳であった年に生まれたポリビウスと、この200年後の人であるローマ人のリヴィウスは二人とも、この二大原史料を参考にしたと書いている。

 この二人によれば、本拠地カルタヘーナ(スペイン)をあとにしたハンニバルが率いていた軍勢は、歩兵9万、騎兵1万2千、そして37頭の象であった。

 しかし、29歳の若者は、この全員をイタリアまで連れていけるとも思っていなかったし、連れていこうとも思っていなかった。
 兵量確保の困難が予想される、敵地に攻め込むのである。
 実際、エブロ川を渡った時点で、ピレネー山脈からエブロまでの防衛に、歩兵1万に騎兵1千を残している。
 それと同時に、遠い地に連れて行かれそうな気配に動揺しはじめたスペイン兵に、気前よく帰宅を許している。
 ハンニバルは、行軍することで、兵を選抜していったのである。
 
 ピレネー山脈を越えてフランス側に入ったときの彼の軍勢は、歩兵5万、騎兵9千、それに37頭の象になっていた。



 アルプスに源を発し、リヨンを通ってマルセーユの近くの地中海に注ぎ込むローヌ河は、流れはさして早くはないが、夏期でも水量の豊かさは少しも衰えない。
 アルプスへは、この河を渡らないと行けない。
 ハンニバルの動きに気づいたローマが、軍を送ってくるであろうことは予測していた。
 ローマ軍と出会せずに、マルセーユやその近辺のギリシャ人にも気付かれないでローヌを渡河する地点を、ハンニバルは探った。
 渡河地点が決まった。
 マルセーユからは、ローヌ河を150キロも上流に遡った地点である。
 ローマ軍と出会う危険も少なかった。
 しかし、5万もの大群の渡河である。
 小隊ごとに、何十回にもわけての渡河である。
 軍の一部しか渡河が終わっていない時点で、ローヌ川河の東岸に住むガリア人の襲撃を受ける可能性があったし、実際、ガリア人はあからさまな敵意を示すことさえ起こった。
 そこでハンニバルは40キロ上流でローヌ河を渡った騎兵隊に、その一帯のガリア人の部落をすべて襲撃し、焼き払うようにと命令した。
 これにより、それまで対岸で敵意をあらわしていたガリア人たちは、潮の引くように姿を消した。
 部落を焼きうちされては、ローヌ河でハンニバルに敵意を示すどころではなくなったからである。

 このローヌ河の渡河の後にハンニバルの手元に残ったのは、歩兵騎兵あわせて4万6千であったという。
 ピレネーを越えた時点での軍勢が、5万9千であったから、ガリアに入ってからローヌ渡河で、1万3千を失ったことになる。
 だが、この損失とて、ハンニバルには計算済みであったろう。

 ローヌ河を越えたハンニバルとその軍が、どのルートを通ってアルプスを越えたかは、そのあとの2200年の歳月にもかかわらず、また多くの研究者の必死の探求にもかかわらず、今もってはっきりしたことはわかっていない。
 研究者たちの説を合計すると6通りの道筋にもなってしまう。
 古代でもすでに二説あった。
 ギリシャ人の歴史家ポリビウスとローマ人の歴史家リヴィウスの説である。
 自分自身も軍を率いてのアルプス越えの経験者であるナポレオンはリヴィウス説を良しとしている。
 さらにナポレオンは、アルプス越えを敢行したハンニバルが遭遇した真の困難は、象の群れを越えさせることであったろう、と言っている。
 ハンニバルがアルプスのどの地点を越えたかは不明だが、どのように越えたかは不明ではない。
 ハンニバルに同行していた、ギリシャ語教師のシレヌスが書いているからである。
 ポリビウスもリヴィウスもこれを参考にしている。

 それによれば、当時のローマ人が不可能と信じていたのが必ずしも誤りではなかったと思うほどに、象も加わった大軍のアルプス越えは難事業となった。

 季節は9月。
 山中では初雪がちらつく季節である。
 南国生まれの象にアルプス山中の気候が心地よいはずがない。
 象たちは暴れがちで、それをなだめる象使いも、雪のちらつく地方を通るなど初体験だ。
 そして道は、一歩踏み外せば谷底という、崖に沿った細い道しかなかった。
 象たちは動物の勘で危険な場所にくると動かなくなる。
 それを、歩兵たちまで動員されて、前に進ませようと押す。
 足元を誤った象や荷車が、人間たちを道連れに谷底へ消えていった。
 全軍を休ませるに足りる宿営地の設営など考えるだけで無駄だった。
 多くの夜は陣幕を張る場所さえも見つけられず、それらを身体に巻きつけて風と寒さを防いだ。
 暖をとることなど不可能であった。

 登りに入って9日目に、峠の上にたどり着いた。
 人も馬も象も、全員が疲労の極にあった。
 しかし、運のいいことに頂上近くには全軍をやすませるに足る平地が広がっていた。
 ハンニバルは、全軍に二日間の休息を与えている。

 しかし、下りは登りより難事になった。
 アルプス山中はでは季節は完全に冬に入っていた。
 凍りついた道を下るのは、象でなくても地獄だ。
 登りのとき以上の兵が、ある者は寒さと疲労に耐え切れず道端で動かなくなり、あるものは足を踏み外して谷底へ消えた。
 何頭もの象も、兵士と同じ運命をたどった。
 
 ハンニバルがアルプス越え要した日数は、登りと下りあわせて15日だったという。
 そして、その後にハンニバル自らが残す記録によれば、
 アルプスを越えてイタリアの地に降り立った時点での彼の軍勢は、2万の歩兵、6千の騎兵の計2万6千である。
 ローヌ河を渡った時点では歩兵騎兵あわせて4万6千であったから、このアルプス越えに払った犠牲は2万にも上ったことになる。
(注:つまり、軍勢の43%がアルプスの山中に消えたことになる。イタリアまでたどり着いたのは半分少々の57%である)
 ピレネー山脈を越えた時点で比較すれば、後に残してきた屍は3万3千になった。
 前人未到の偉業ではあったが、払った犠牲もすさまじい規模であった。
 アルプスを降りたところに広がる谷間の地で、ハンニバルは全軍に15日間の休息を与えた。



 75万もの動員力をもっていたイタリアに2万6千で攻め込んだハンニバルは、数字からみるかぎりは、無謀な冒険を強行した狂人にしかみえない。
 だが、内実はそれほど簡単ではない。
 ハンニバルの2万6千人は、ピレネー山脈を越え、フランス横断中に敵対してくるガリア人を撃退し続け、ローヌの渡河でも生き残り、アルプス越えにも耐えぬいてきた兵士たちである。
 精鋭という形容詞が最もふさわしい、粒ぞろいの戦士たちの集団である。
 それに、5カ月もの間、同じ釜の飯を食い、労苦を共にしてきたもの同士である。
 スペイン人、リビア人、ヌミデイア人と多人種の混合体であっても、連帯感は生まれる。
 これに加えて彼らは、若い天才的な才能の持ち主一人に率いられていた。

 また、ハンニバルには、イタリアのガリア人(ケルト人)を味方につけるという手があった。
 あらゆる面から検討しても、29歳のカルタゴの武将は、無謀な冒険を断行したのではなかった。
 戦闘の結果を左右する戦術とは、コロンブスの卵であると同時にコロンブスの卵ではない。
 誰も考えなかったやりかたによって問題を解決するという点ではコロンブスの卵だが、そのやりかとを踏襲すれば誰がやっても同じ結果を産むとは限らないという点で、コロンブスの卵ではないのである。
 それを活かすかどうかは、それを実際に駆使する人間の才能に左右される。
 アレクサンダーだから成功したのであって、誰がやっても成功するとはかぎらない。
 アレクサンダーの先例を参考にしながらもハンニバルは彼なりの独自性でそれを活かすことになる。

 優れた武将は、主戦力をいかに有効に使うかで、戦闘の結果が決まることを知っている。
 だが、その主戦力を有効に使うには、非主戦力の存在が不可欠であることも知っている。
 2万6千は、ハンニバルの主戦力であった。
 その彼が、イタリアのガリア人の懐柔に務めたのは、非主戦力が欲しかったからである。
 ハンニバルは、ガリア民族の特性を知っていた。
 彼はアルプス以南のガリア人を同盟国あつかいにしていない。
 同盟を結んでも、内実は傭兵と考えていた。
 彼は非主戦力が欲しかった。
 アルプス越えを成功させてから、1カ月もしないのに、ローマ憎しの想いのあったガリア人が少しづつ、しかし確実にハンニバルのもとに集まってきて、その数は1万人を越えていた。
 2万6千は、3万6千になったのである。
 しかも、当時のイタリア・ガリアはアフリカのヌミデイアと並んで、騎兵の産地であった。




 2300年も昔の人、アレクサンダー大王の業績を探ろうにも、現代に生きる私たちには、容易に手に入るものとすればプルタルコスの『列伝』しかない。
 この作品では、アレクサンダーの人間性には狭れても、彼が駆使した戦略戦術までは探れない。
 紀元前1世紀のギリシャの教養人であったプルタルコスが、そのようなことにはあまり関心がなく、またこの種のことを書くうえでの専門知識もなかったからである。

 だが、古代人でアレクサンダーについて書いたのは、プルタルコス一人ではない。
 多くの歴史家が、この若き天才の業績を書く作業に挑戦しているが、その当時ならば史料は不足しなかった。
 アレクサンダー自身が、二人の記録係を同行している。
 この二人の書いた記録をもとに、大王の死の直後に早や、二人の歴史家が伝記を書いている。
 今日では。アレクサンダーに同行した二人が書いた記録も、その死後に書かれたニ歴史家の著作も消失しまっている。
 大王の死のわずか百年後に生きたハンニバルに比べれば、情報の量だけ考えても、埋めようもない不利にあるのは明らかである。

 後に大王と尊称されることになるアレクサンドロス(アレクサンダー)は、22歳の歳に、3万6千の兵を従えただけで、広大なペルシャ帝国に攻め入った。
 この戦力で、10万から20万もの兵を動員してくるペルシャ王ダリウスと戦って、二度までも勝ったのである。
 ペルシャ側の戦死者は10万を数えたのに反し、アレクサンダーの損失は200から300。
 ゼロを1つか2つ書き落としたかと思うくらいだ。
 古人は大げさに記すクセがあったというが、完勝であったことでは疑いようがない。
 
 75万人の動員力をもつイタリアに、その1/10以下の戦力で攻め込もうとしていたハンニバルにとっては、アレクサンダーへの関心はより強かったとおもわれる。




● インターネット画像から




[ ふみどころ:2012 ]



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