2012年11月17日土曜日

:発明と技術:「発明は必要の母」


_

● 2012/03/16[2000/**]



 人の脳の作りに人種間の差異がないとしたら、技術の発展が大陸ごとに異なっていることはどう考えればよいのか。
 一つの答えは、非凡な天才が技術を進歩させるという考えである。
 人類の技術の進歩は、そうした個人のによって突然もたらされたようにも見える。 
 グーテンベルグ、ジェイムズ・ワット、エジソン、ライト兄弟など。
 人類の科学技術史は類まれな天才たちが誕生した場所の偶然性によって左右されるものにすぎないのだろうか。

 あるいは、大陸間の技術発展の違いを、発明の受容しやすい社会と、しにくい社会の違いで説明しようとする人びともいる。
 この考え方では、個人の発明の才ではなく、社会全体の受容性が問題となる。
 第三世界には絶望的なほどに進歩に対して保守的な社会がある、と考える人びとが多い。



 まず、発明はどのようになされるかについて考えてみよう。
 これに対する一般的な答えは、「必要は発明の母」という格言で表現される。
 何らかの必要があるときに発明が生まれる、という考え方である。
 「必要は発明の母」で説明できる事例は多い。

 <<事例略>>

 これらの事例はよ広く知られている。
 そしてわれわれは、著名な例に惑わされて、「必要は発明の母」という錯覚に陥っている。
 実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何かを作り出そうとして生み出されたものではない。
 発明をどのように応用するかは、発明がなされたあとに考え出されている。
 一般大衆が発明の必要性を実感できるのは、それがかなり長い間使い込まれてからのことである。 
 数ある発明の中には、当初の目的とはまったく別の用途で使用されるようになったものもある。
 飛行機や自動車をはじめとする、近代の主要な発明の多くはこの手の発明である。
 内燃機関、電球、蓄音機、トランジスタ。
 おどろくべきことに、こうしたものは、発明された当時、これをどういう目的で使ったらいいのかよくわからなかった。
 つまり、多くの場合、「必要は発明の母」ではなく、
 「発明は必要の母」
なのである。
 どんな発明でも最初のひな形は、何かの役に立つほどの性能を示せないことが多い。
 そのため、大衆の需要も乏しく、長期にわたって発明家だけのものであり続けることが多い。
 カメラにしてもタイプライターにしても、テレビにしてもである。



 発明がどのようになされるかについての一般的な見方では、発明とひつようの関係が逆転している。
 また、ワットやエジソンのような、非凡な天才の役割が誇張されすぎている。
 出願者に特許の証明を要求する特許法も、発明は非凡な天才によってなされるという見方を助長している。
 特許法は、先駆者の成功を軽視したりすることで、発明家が経済的利益を得られる下地を与えている。

 あの時、あの場所で、あの人が生まれていなかったら、人類史が大きく代っていた、というような天才発明家は、これまで存在したことはない。
 功績が認められている有名な発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け入れられるようになったときに、既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである。

 われわれの考察の結論は、次の2つである。
①.技術は、非凡な天才がいたおかげで突如出現するものではない。
 累積的に進歩し完成するものである。
②.技術は、必要に応じて発明されるものではない。
 発明されたあとに、その用途が見出されることが多い。
 
 この2つの結論が、記録に残っていない古代の技術に、もっともよく当てはまることは確かである。

 中世以降の石油の精製については、19世紀の化学者たちが、中間分留物が灯油として役立つことを発見した。
 しかし、もっとも揮発性の高い分溜物(ガソリン)は、使い道がないものとして捨てられていた。
 ガソリンが使われるようになったのは、内燃機関の燃料として理想的だと分かってからのことである。
 現代文明の燃料であるガソリンもやはり、最初は使い道のない発明として登場しているのである。



 新しい素晴らしい技術が発明されたとしても、社会がその技術を受け入れるという保証はない。
 社会がまったく相手にしなかった技術はたくさんあるし、長い抵抗のすえにやっと取り入れられた技術も山ほどある。
 社会はどんな要因によって新しい発明を受け入れるのだろうか。
 異なる発明がどのように受容されたかを調べてみると、そこには少なくとも4つの要因が作用していたことがわかる。

①.もっともわかりやすい要因は、既存の技術と比べての経済性である。

②.2つ目の要因は、経済性より社会的ステータスが重要視され、それが受容性に影響することである。
 日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字ではなく、書くのが大変な漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。

③.3つ目の要因は既存のものとの互換性である。
 キー配列を効率化したタイプライターがいまだ受け入れられないのはこのせいである。 
 1873年に開発されたQWERTY配列タイプライターは非工学設計の結晶である。
 このキーボードはさまざまな細工をほどこし、タイプのスピードをあげられないようにしてある。
 なぜこうした非生産的な工夫がほどこされたかというと、当時のタイプライターは、隣接するキーをつづけざまに打つと、キーがからまってしまったからである。
 そこでタイピストの指の動きを遅くするためにこのキー配列が工夫された
 それがQWERTY配列である。
 しかし、1993年に、キーの技術的な問題が解決さ、効率のいい配列のキーボードが開発され、試用者によっては速度は2倍に、使いやすさも95%向上することが示された。
 だが、旧キー配列のキーボードは社会的にすでに定着しており、効率のいいキー配列を普及させる運動はことごとく、失敗に終わっているのである。

④.新しい技術の受け入れに影響を与える4つ目の要因は、それを受け入れるメリットの見分けがつきやすいか否かである。



 人類史上には強力な技術を自ら放棄し、その理由がよくわからない社会が存在する。
 われわれは、いったん取得された有用な技術は、それに変わるよりよい技術が登場するまで継続的に使われると考えがちである。
 しかし、現実的な観点からすると、技術は、社会に取得されるだけでなく、維持されなくてはならない。
 そして、技術が社会的に維持されていくかどうかもまた、予測不可能な要因によって左右されることが多い。
 どんな社会にあっても、一時的にな社会運動や社会現象の影響で、経済的に無益なものの価値が上がることがあるし、有益なものの価値が下がることがある。
 もちろん最近では、世界のほとんどの社会が互いに結びついているので、重要な技術が破棄されてしまう現象が実際に起こるとは想像しにくい。
 しかし、他の社会と結びついていない社会では、たとえば江戸時代の日本のように、重要な技術が放棄されてしまう現象が実際起こり、その状態が継続することはある。

 江戸時代の日本で、銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。
 日本人は、1543年に中国の貨物船に乗っていたニ人のポルトガル人冒険家から火縄銃が伝えられて以来、この新しい武器の威力に感銘し、自ら銃の製造をはじめている。
 そして、技術を大幅に向上させ、1600年には、世界でもっとも高性能な銃をどの国より多く持つまでになった。
 ところが、日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。
 日本の武士、サムライにとって刀は自分たちの象徴であるとともに芸術品であった。
 また銃は、1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様、異国で発明されたということで、所持や使用が軽蔑されるようになった。
 やがて幕府が銃の生産を減らすようになると、実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまった。
 日本が新しい強力な軍事技術を拒絶しつづけられたのは、人口が多く、孤立した島国だったからである。
 しかし、日本の平穏な鎖国も、たくさんの大砲で武装したペリー艦隊の訪問によって1853年に終わりを告げ、日本人は銃製造再開の必要性を悟ることになる。

 この、日本で銃火器が排除された例や、中国で外洋船が使われなくなった例は、孤立した社会や孤立に近い状態の社会において、既存の進んだ技術が後退した事例として広く知られている。



 人類の科学技術史は、自己触媒のプロセスの格好の例である。
 自己触媒の過程においては、ある過程の結果そのものが、その過程の促進をさらに早めるという正のフィードバックとして作用する。
 つまり、新しい技術は、次なる技術を誕生させる。
 ゆえに、発明の伝播は、その発明自体よりも潜在的に重要になる。

 科学技術は、それまでの技術への精通を前提として前進する。
 科学技術はの進展過程が自己触媒的である理由の一つはここにある。
 科学技術の進展過程が自己触媒的であるというもう一つの理由は、新しい技術や材料が登場することによって、新旧のものの組み合わせで別の新しい技術が可能になるということである。




[ ふみどころ:2012 ]



__