2012年12月1日土曜日

:「マーレ・ノストウルム」、われらが海

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● 1993/10/10[1993/08/07]



  ザマで敗れたカルタゴに対してローマはたとえ自衛のためであろうと、ローマの許可無しには戦いをすることを禁じ手いる。
 自主的な交戦権を認めないということであった。
 これではカルタゴは、完全な独立国であるとはいえない。
 しかし、カルタゴの内政には、ローマはまったく干渉していない。
 
 日本人である私にとって特に興味をひかれるのは、ここには勝者と敗者しかいないという事実である。
 正義と非正義とに分けられてはいない。
 戦争は犯罪である、とは言っていない。
 もしも戦争犯罪者の裁判でもおこなわれていたならば、ハンニバルがまず、戦犯第一号であったろう。

 戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者ではなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろうあk。
 分けたからといって、戦争が消滅したわけではないのだが。





 「介入」とは、それが政治的であれ経済的であれ、また軍事的であろうと何であれ、あいてとかかわりをもったということである。
 そして、そのかかわりとは、継続を不可避にするという性質をもつものでもある。
 
 他者よりも優れた業績をなしとげたり有力は地位にのぼった人で、嫉妬から無縁の過ごせた者はいない。
 ただし、嫉妬は、それをいだいてもただちに弾劾や中傷という形をとって表面化することはまずない。
 嫉妬は隠れて機会をうかがう。
 機会は、相手に少しでも弱点がみえたときだ。
 スキャンダルは、絶対に強者を襲わないのである。



 歴史を後世から眺めるやり方をとる人の犯しがちな誤りは、歴史現象というものは、その発端から終結に向かって実に整然と、つまり必然的な勢いで進行したと考えがちな点にある。
 ところが、ほとんどの歴史現象は、そのように綺麗に進むことはない。
 試行錯誤を繰り返し、迷って立ち止まって、まったくの偶然でとある方向に曲がったりしたあげくに、後世から見ると必然と思われる結末にたどりつくものなのである。

 第二次ポエニ戦争でローマに敗れ以来半世紀の間というもの、カルタゴ人は、ローマの覇権の許で平和に生きてきた。
 このカルタゴの滅亡は、二重にも三重にも重なりあって起こってしまった、不幸な偶然がもたらした結果であったとしか思えない。

 カルタゴを滅亡させたことによって、ローマはまもなく、新たな問題を抱え込むことになる。
 それはヌミデイア(現アルジェリア)の強大化に歯止めをかけることのできる存在を、抹殺してしまったことにあるからである。



 すべては、紀元前264年からの第一次ポエニ戦役に始まった。
 カルタゴをくだして西地中海の覇者になった「ハンニバル戦争(第二次ポエニ戦役)」終了後から数えれば、ローマが全地中海の制覇に要した歳月は、70年足らずにすぎないのである。
 ポリビウスならずとも驚くべき現象であり、当時の多くの人びとも、想いはおなじであったろう。
 
 すべては、ハンニバルから発するのでらう。
 130年間を取り上げた本書でも、16年間でしかない第二次ポエニ戦役の叙述に、巻の2/3の紙数が費やされている。
 歴史家リヴィウスも、著作『ローマ史』の中での「ハンニバル戦争」に費やした分量を振り返って、この戦争のローマ人に与えた影響の大きさを、改めて再認識しているほどだ。

 ローマの壊滅を生涯の悲願としたハンニバルは、他の誰よりもどの国よりも、ローマを強大にするのに力を貸してしまったことになる。
 地中海全体を、これほども短期間のうちにローマ人の「われらが海:マーレ・ノストウルム」にしてしまったのは、ハンニバルであったとおもうしかない。

 しかし、成功者には、成功したがうえの代償がつきものである。
 ローマ人も、例外ではなかった。
 『ローマ人の物語』のⅢ巻になる次の巻では、覇者になって以後のローマ人の所行を書いていくつもりである。






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