2012年10月19日金曜日

:金融主義者の思いあがり:最大の発言権をもっているのは政府である

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● 2011/06/25



 束縛のない自由市場資本主義を前にして、識者たちは、世界は一つのバザールになった、と主張した。
 政府の有効性は縮小し、戦争や紛争は過去のものになり、冷戦は歴史上の珍事となり、国際問題を支配しているのは、「無国籍の金融の力」である。
 もし、世界が一つのグループの手中にあるとすれば、その主体は、ゴールドマンサックスなど新進の投資銀行やベンチャー投資家、自由放任主義をまくしたてる経済専門家たちである。
 国家、特に「大きな政府」や全体主義的な形態は過去のものになった、と。

 アメリカの保守派は、いわゆる「大きな政府」などは無用であり、注意を払う必要のないものとあざ笑った。
 ところが21世紀に入ると、その思い上がりを打ち消すような、 
 2つの大噴火が発生
 した。

 その一つ目が、「9・11同時テロ」である。
 非国家主体による、意表をついた殺戮行動は、地球上で最も強力な国家をひどく傷つけ、一連の驚くべき対抗措置に走らせた。
 さらにアメリカは、世界の国々の大半を動員して、国家を主体とする秩序を防衛することに、躍起になった。
 あらゆる種類の治安措置や、個々の市民に関する膨大なデータの蓄積、他国との機密情報の共有、怪しい銀行口座や禁制品に対する協調措置などは、いわゆる「テロとの戦争」の副産物の一つである。

 歓迎されざる、ぞっとするようなニつ目の出来事は、昨年来の金融危機である。
 アメリカのサブプライム住宅ローン市場にはびこっていた無責任は、地球上のあらゆる場所にドミノ効果を広げ、遠くはなれた個人や銀行、会社、そして社会全体を傷つけた。
 この劇的な危機に関しては、指摘すべきことが多数ある。
 その一つは、アメリカの作家トム・ウルフが皮肉たっぷりに「宇宙の支配者たち」と命名した人々、つまり商業銀行家やヘッジファンドの運用助言者、「株価は永遠に上昇する」と告げたニセ予言者たちの、面目を失墜させたことである。
 彼らに共通するのは、要するに、努力せずに儲けたい、という欲望で身を焦がしていることだった、のである。

 自分の家を失ったり、預金や年金が破滅したりした人々にとって、銀行家や経営責任者が公然と辱められる光景は、自分たちの痛みに対する中途半端な慰めでしかない。
 失業したり短時間労働者にされたりしたおそらく何百万人もの人々にとって、これら羽振りのいい連中に対する制裁は不十分だろう。
 だが、それは今回の論点ではない。

 私が言いたいのは、束縛のない自由市場資本主義が唐突に、激震を伴って終わりを告げ、
 国家が進み出て、政治だけでなく金融問題の管理も再開した
ということである。
 もちろん、世界中の様々な場所で、国家が退場したことは一度としてなかった。
 90年代後半には、ロシア、中国、ベネズエラ、ザンビアなどで、すでに国家権力は増大の兆候を見せていた。
 したがって、、市場志向型経済の逆転は、特にアメリカにおいて最も衝撃的だったと言えるだろう。
 アメリカの有力銀行が、 いわゆる「耐久試験」にかけられ、その経営者が連邦議会の各委員会で繰り返し詰問され、これまで野放しだったかれらの給料と賞与に「上限」が設けられる光景は、まさに巨人たちの屈従である。
 それはまた、国家国民の潜在的な強さをも想起させる。

 同じことが国際的な場面においても言える。
 現在の「宇宙の支配者」は誰か。
 答えは明白である。
 地球規模の大金融機関でさえも、政治的なご主人様の笛にあわせて踊っているのだ。
 つまり、最大の発言権を持っているのは「政府」である。

 たとえば、IMFは、傷ついた国家経済や崩壊する通貨を支えるために、何千億ドルかの追加資金をもらうかもしれない。
 だが、その権限はどこから来たのか。
 もちろん、世界の金融システムを救済する必要を認識した諸国の、「政府グループ 」からである。
 その決定が、古いG7会議のものか、あるいは新しいG20会議のものなのかは、真の問題ではない。
 肝心なのは、明らかに「政府による行動」だということである。
 要するに、国家が舞台の中央に復帰したのである。

 結局のところ、トールマン大統領の有名な文句
 「責任はここでとる」
を借りるなら、通常、
 権力の手綱を握っているのは政治指導者
なのである。








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