2012年7月14日土曜日

★ 人間は考えても無駄である:土屋賢二

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● 2009/10/15






 老化を防ぐ方法はある。
 それは遺伝子組み換えなんて技術を使わなくても可能です。
 細胞の寿命を延ばすとか、活発にさせるとか。
 あるいは老化に伴って生じてくるものを出させないとかね。
 遠い話だけど。

 ただ、「不老」と「不死」の問題がある。
 『ガリヴァー旅行記』に不死の力は与えられたけど、不老の力は与えられなかったから、醜く老いさらばえて、でも生きてる、という不死の例が出てくる。
 不死だけじゃダメだ、やっぱり不老が伴わないと。
 不老の定義をしなくちゃいけないけど、かりに「いつまで経っても若々しい」と定義すると、ある程度できるかもしれない。
 でも不老不死なんてことが実現したら、人類は破滅する。
 生まれたからには、やっぱり死ななくちゃいけない。
 ちょうど120年ぐらいで死ぬように人体は設計されていると言われている。
 120歳までは、見た目にも若くて痴呆にもならず、それでもリミットがきたら死んじゃうという、それは実現できればと思います。
 実現の可能性も高いと思う。

 理系の人間ていうのは、
 新発明とか新発見とか、そういった新しいっていう意味の「しん」、
 進歩とか進化の「しん」、
 それから真実の「しん」、
そういう「しん」が好きなんです。
 「しん」の先には必ず「良い何かがある」という妄想にとりつかれてる。
 それでずっと考えるという習性がある。

 世の中、科学的発見をし続けなくてはいけないという強迫観念に囚われているみたいなところがある。
 そのために、物事をすべて細かく分析して、いわばデカルトの要素還元的なことをやっていく。
 それで新しい事実を発見すると、技術に転換できる。
 こういうやりかたで、科学の可能性は無限に広がっていく。
 科学者ってほっておけば、何でもやっちゃう。
 人間のクローンだって作ってしまう。
 放っておけば何だってやっちゃうということの裏には、知ったらやってみたいというところがある。
 知っていることを立証し、応用しようとする。
 知を尊ぶっていう部分は、哲学や文学の研究者と同じなんですが、理系の研究というのは技術という結果が出るし、国から研究費が出たりもする。
 モノを生み出せば繁栄する、という考えが根底にある。

 日本は、科学技術って一緒にしてて、科学技術振興機構なんてあるくらい。
 ケンブリッジにもオックスフォードにも工学部はない。
 カレッジの中に。MITとかカルテックみたいな、インステイテユート・オブ・テクノロジーっていうのがないでしょ。
 サイエンスはサイエンス。
 サイエンスは知を求めることであって、テクノロジーを求めるのではないんです。
 知を求めるというのは、崇高であると考えられている。
 だから、尊敬もされるし自負もある。
 非常に威厳とか格式がある。
 技術となると、修理工といったイメージでとらえられる。
 だから、まず尊敬されるのは科学者なの。
 
 われわれの世代は、
 「すべてが爆発的に変わった半世紀」
を生きてきたでしょ。
 たとえばショックレーっていう人が半導体の原理を見つけて、それが「IT」へ変化した。
 ほかにもワトソンとクリックという人が、DNAの二重螺旋の理屈を考えついて実証した。
 一次元のたった4つの情報の組み合わせて、ものすごい複雑なこともすべて網羅できるという発見。
 そうしたことを間近に見てきた。
 生まれ変わったら、もうちょっと進むところを、傍観的に見たいな。
 自分が一生懸命やるっていう真面目な態度じゃなくて見てみたい。
 生まれ変わらなくてもあと100年生きればいいんだけど、反面、
 老いさらばえてよぼよぼになって醜い姿をさらけ出してまで生きるっていうことはしちゃいけない、
と思うから難しい。

 霊長類が一番優れているという妄想があるでしょ。
 でも、人間なんて不完全で合目的的じゃないところがたくさんある。
 これからも不都合なところがたくさん見つかるよ。




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