2012年12月8日土曜日

: 民族の移動とローマ体制の限界

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● 2002/09/01[[1994/08]


『 
 人間とは、食べていけなくなるや必ず、食べていけそうに思える地に移動するものである。
 これは、古今東西変わらない現象である。
 この種の民族移動を、古代では蛮族の侵入と呼び、現代ならば難民の発生という。
 古代ローマでも、この種の民族移動を、ローマが存続している限り忘れることはゆるされなかった。
 食べていけなくなった人びとの移動が、平和的になされるか暴力的になされるかは、たいした違いではない。
 いかに平和的に移ってこられても、既成の社会をゆるがさないではおかない。
 民族の移動とは、多少なりとも暴力的にならざるをえなくなるをえないのである。
 この難問に直面するたびに、ローマ人がどのようにそれに対処していったかは、ほとんどローマ史そのものと重なってくる。

 紀元前390年に、ケルト人(ガリア人)に首都を一時にしろ選挙されるという苦い経験をもつローマ人は、蛮族の侵入を、まず武力で排除することを考え実行した。
 しかし、余裕がある時代---先々のことを考えて対策を立てる余裕をもてた時代---は、侵入を待ち受けるのではなく、自分から蛮族の住む地に出向き、彼らを征服するやり方をとった。
 征服した後でローマ式の、つまり街道網を整備し植民都市を建設したりしての「インフラ整備」を行うことでローマ化(ローマ人の考えでは文明化)を進め、蛮族が自分たちの地でも食べていけるようにした。
 ただし、このローマ式やり方は、現代では、侵略路線であり帝国主義であると断じられて評判が悪い。
 現代では、同じ問題を人道主義で解決しようとしている。
 ただし、解決しようと努力しているのが現状で、解決できたわけではない。

 ガイウス・マリウスは、徴兵制を志願制に変えることで軍制改革を、紀元前107年に実行していた。
 前103年、新生なったローマ軍団は、その産みの親マリウスに率いられ、アルプスを越えて南仏に入った。
 ところが、蛮族はガリア(現フランス)の中西部に居座ったままで動きを見せない。
 総司令官マリウスは、大気中の兵士が無為に時を過ごすことで軟弱化するのを防ぐために、運河工事をさせることにした。
 これは後々まで「マリウス運河」と呼ばれ、マルセーユとフランス内陸部の間の物品の流通に益することになった。
 つまりローマ軍は待機中でも属州の「インフラ整備」に務めていたのである。
 このときから、駐留軍のローマ軍が公共土木事業に従事する習慣が定着する。
 
 移動を再開したゲルマン人は、戦闘員である成年男子の数だけでも、30万人におよんだという。
 女子供はもちろんのこと家畜まで引き連れ、荷馬車に何もかも積み込んでの民族の大移動である。
 これだけの数の人間が、ヨーロッパではどこよりも食べるものが豊富であるとの評判の、イタリアを目指して移動を開始したのだ。

 「アクエ・セクステイエ戦」として有名な、マルセーユから20キロ北で行われた戦闘は、ローマ軍の圧勝に終わった。
 10万以上のゲルマン人が、死ぬか捕らわれるかして全滅した。
 紀元前101年の春、ローマの全軍は、蛮族が南下しはじめるのを待たずに、彼らの方からポー河を越える。
 戦闘はローマ軍の完勝に終わった。
 マリウスが改革したローマ軍団が、中隊も小隊もまるで盤上の駒のように、指揮官たちの指図どうりに見事に働いたからである。
 一方、ゲルマン人の闘い方は、数で優勢でも、押す一方でしかなかった。
 降伏することを拒否して自死を選んだ女たちまでを含めて、12万人ものゲルマン人が死んだ、
 捕虜になったのは、6万に達する。
 南仏と北伊と続けて敗北したゲルマン人は北ヨーロッパに逃げ戻った。



 人間とは、眼の前に突きつけラレでもしない限り、眼をひらかないものである。
 「混迷」とは、敵は外にはなく、自らのうちにあることなのである。

 大衆とは何時の世でも、権力者や富裕階級への批判は喜んで聞くものである。
 現代のイギリスの研究者は次のように書いている。
「 無恥な大衆とは、政治上の目的でなされることも、私利私欲に駆られてのことであると思い込むのが好きな人種である」
 要は、教養の有無でも、時代の違いでも文化の違いでもない。
 目的と手段の分岐点が明確でなくなり、手段の目的化を起こしてしまう人が存在するかぎり、この批判の有効性は失われないのである。

 恵まれた階級以上に頑迷な守旧派と化す「プアー・ホワイト」はいつの世にも存在するのである




 力の激突が予想されるにらみ合いでは、双方ともが掃討なプレッシャーに耐えねばならない。
 そして、最初に行動を起こすのは、この機を逃せば好機は二度とめぐってこないと信じて決断したときか、または、プレッシャーに耐え切れなくなった場合である。

 戦争とは、それが続けられるに比例して、当初はいだいてもいなかった憎悪まで頭をもたげてくるものだ。
 何のために闘っているのさえわからなくなる。
 ただ、憎悪だけが彼らを駆り立てる。
 内戦が悲惨であるのは、目的が見えなくなってしまうからである。



 イエス・キリストは、人間は「神」の前に平等であると言った。
 だが、彼は「神」を共有しない人間でも平等である、とは言ってくれていない。
 それゆえ、従来の歴史観では、古代よりも進歩しているはずの中世からはじまるキリスト教文明も、奴隷制度を全廃してはいない。
 キリスト教を信じる者の奴隷化を、禁止したにすぎない。
 だから、ユダヤ教信者を強制収容所に閉じ込めるのは、人道的には「非」であっても、キリスト教的には、完全に非であると言い切ることはできない。
 アウシュビッツの門の上に掲げられてあったように、キリスト教を信じないために自由でない精神を、労働で鍛えることで自由にする、という理屈も成り立つからである。

 キリスト教を信じようが信じまいが、人間には「人権」というものがあるとしたのは、18世紀の啓蒙思想からである。
 ゆえに、奴隷制廃止をうたった法律は、1772年のイギリスからはじまって1888のブラジルにいたる、一世紀間に集中している。
 とはいえ、法律ができても人間の心の中から、他者の隷属化に無神経な精神までが、完全に取り除かれるわけではないのである。



 システムのもつプラス面は、誰が実施者になってもほどほどの成果が保証されるところにある。
 反対にマイナス面は、ほどほどの成果しかあげないようでは敗北してしまうような場合に、こうむる実害が大きい点にある。
 ゆえに、システムに忠実でありうるのは平時ということになる。
 非常時には、忠実でありたいと願っても現実がそれを許さない、という事態になりやすい。
 だからこそ柔軟性を持つシステムの確立が叫ばれることになるのではあるが、これくらい困難なこともないのである。

 有能な指揮官に率いられないかぎり、戦力の効率のいい発揮は不可能事であり、効率のよい活用のないところでは、それは即、実害にむすびついてしまう。

 いかに戦略戦術の天才が率いようと、戦力の小さい軍隊には欠点もある。
 戦闘が優先するあまりに、外交面がおろそかにならざるを得ないという点である。
 つまり、闘わずして勝つ、という課題に割く余力があまりない、ということだ、
 無言の圧力をかけるのは、何と言っても「量」であるからだ。



 ツキデイデスは、著作『ペロポネソス戦史』の中で、「大国の統治には、民主政体は適していない」とまで言っている。
 民主政だけが、絶対善ではない。
 民主政もまた他の政体動揺に、プラス面とマイナス面の両面をもっており、運用次第では常に危険な政体なのである。
 
 歴史学者や政治学者たちが、為政者に確固とした政治目標を求めるのは、それはそれで理(ことわり)である。
 確とした政治目標なしに、政治をしたりすると、政策は前後のゆれうごくことが多く、結果として国力の浪費につながる。
 だが、視点を、統治される側に移してみたらどうであろう。
 統治する側の確固とした政治目標の有無にかかわらず、結果が良かったらそれで結構、という評価もできはしないか。



 人間の幸せには、客観的な基準は存在しない。
 それを精神のことに限れば、コミュニケートがある、ということは、人を充分に幸せにする。
 とはいえ、「コミュニケート」とは、ともに過ごす時間が多ければ多いほど、コミュニケート度も高くなるというものではない。
 なにしろ主観的なのだから、相手にコミュニケート充分、と感じさせればよいのである。







[ ふみどころ:2012 ]


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★ ローマ人の物語Ⅲ勝者の混迷: 塩野七生

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● 2002/09/01[[1994/08]



 地中海世界の勝者になったローマであるのに、それは富裕階級の富裕度がケタ違いに向上したことが示しているのだが、それなのになぜ、共和政ローマの中核であった一般市民の数が減少するような事態が起こってしまったのか。

 社会不安はしばしば経済不安からはじまる。
 経済不安は、失業者の増加という形をとって姿をあらわす。

 富が必要以上に増えれば、ほとんどの人は投資を考える。
 しかも投資先には土地が最善であると思うのは、古今東西変わらない。
 では、共和政ローマに、投資を可能にするだけの土地はあったのか。
 共和政ローマは、イタリア半島制覇の時代でも、戦いに勝っても相手の都市も市民も滅ぼさずに、そのかわりに相手のもつ土地の一部を没収して、ローマの国有地とするやりかたをとってきた。
 紀元前140年当時の国有地の総計は、ローマの全領土の1/7に当たっていたという。
 これらの国有地は、ローマ市民に貸し与えられた。
 借地料は、小作料と考えれば、妥当過ぎるくらいの金額であった。
 国有地の借地権には、子孫への相続も認められていたし、他者への譲渡すらも禁じられていなかった。
 実際上はもはや私有地と言ってよい。
 ただし、法的にはあくまでも、国有地であったが。

 この国有地に、余剰資金が流れ込んだ。
 ローマにはドレイという、安い労働力が多量に入ってきた。
 ローマ市民は兵役の義務を背負っていた。
 一方、労働力としてのドレイの魅力は、ローマ市民でないため兵役を務める義務がなかった。
 一人前の市民が義務である兵役を務めて帰郷してみれば、留守中の家族労働で得た収穫物は、多数のドレイを使う大規模農園に価格競争で敗れ、苦境に陥っていた。
 その苦境を乗り越えようと借金をする。
 だが、それも、所詮無駄なあがきにすぎない。
 問題はローマの農民の勤労意欲にあったのではなくて、ローマの農業の構造の変化にあったのである。

 ローマ人によるドレイの定義は、
 「自分で自分の運命を決めることが許されない人」
である。
 ドレイには、兵役も税金も免除されていた。
 自分の運命を自分で決める権利を完全にもっていない人には、義務も課せられなかったのである。

 大規模な農園を兵役に徴用されないドレイという安定した労働力を使って経営するようになれば、収益は増大する。
 ローマの国全体からみれば、農業生産は増大する。
 経済的良いことは、社会的にも良い結果をもたらすとは限らない。
 それは、借金のかたにとられたり、価格競争に敗れて手放したりして土地を失った、元自作農の失業者が出現した。
 彼らは、富の集中する首都ローマに流れ込んだ。
 推計によれば、ローマの人口の7%にも及んだという。
 これはもう立派に社会問題である。

 といって、福祉を充実させれば解消する問題ではない。
 「失業者とは」ただ単に、職を失ったがゆえに生活手段を失った人びとではない。
 社会での自らの存在理由を失った人びとなのだ。
 多くの普通人は、自らの尊厳を、仕事をすることで維持していく。
 ゆえに、人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、
 福祉では絶対に回復できない。
 職をとりもどしてやることでしか、回復できないのである。

 テイベェリウス・グラクスは紀元前163年の生まれである。
 マリウスは、前157年の生まれである。
 ガイウス・グラックスは、前154年の生まれだった。
 三者とも同時代人であったと言っていいだろう。
 結果としてならば三人とも、失業対策にかかわったことになる。
 グラックス兄弟は意図的に、一方のマリウスは非意図的に。
 そして、グラックス兄弟の構想は彼らの死によって中絶した。
 だが、マリウスは、あっけないくらいに簡単に実現させてしまったのであった。

 執政官マリウスは、正規軍団の編成を、従来のような徴兵制ではなく、志願兵システムに変えたのである。
 これによって、ローマの軍役は、一人前の市民にとっての義務ではなく、職業に変わった。
 マリウスの呼びかけに応じて志願してきたローマ市民の大半は、農地を失ったりして失業者になっていた人びとである。
 市民兵に支払われていた兵役中の経費は、志願兵の給料になった。
 志願制に変えたことによって、失業者を吸収し、当然のことながら長期に兵を使うことができるようになった。
 このことによって、最高司令官を頂点とする将官階級と一般兵士の関係が、より緊密になった。

 すべての物事は、プラスとマイナスの側面をもつ。
 プラスの側面しかもたないシステムなど、神業であっても存在しない。
 ゆえに改革とは、もともとマイナスであったから改革するのではない。
 当初はプラスであったものが、時がたつにつれてマイナス面が目立ってきたことを改める行為なのだ。
 ローマ軍の機能性を回復しようとしてなされたマリウスの改革にも、ほどなくマイナス面があらわれてくる。
 ローマ軍団の「私兵化」がそれだ。
 マリウスの軍制改革こそ、後のスッラ、ポンペイウス、カエサル(シーザー)登場の土壌を準備したということになる。






[ ふみどころ:2012 ]


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2012年12月1日土曜日

:「マーレ・ノストウルム」、われらが海

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● 1993/10/10[1993/08/07]



  ザマで敗れたカルタゴに対してローマはたとえ自衛のためであろうと、ローマの許可無しには戦いをすることを禁じ手いる。
 自主的な交戦権を認めないということであった。
 これではカルタゴは、完全な独立国であるとはいえない。
 しかし、カルタゴの内政には、ローマはまったく干渉していない。
 
 日本人である私にとって特に興味をひかれるのは、ここには勝者と敗者しかいないという事実である。
 正義と非正義とに分けられてはいない。
 戦争は犯罪である、とは言っていない。
 もしも戦争犯罪者の裁判でもおこなわれていたならば、ハンニバルがまず、戦犯第一号であったろう。

 戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者ではなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろうあk。
 分けたからといって、戦争が消滅したわけではないのだが。





 「介入」とは、それが政治的であれ経済的であれ、また軍事的であろうと何であれ、あいてとかかわりをもったということである。
 そして、そのかかわりとは、継続を不可避にするという性質をもつものでもある。
 
 他者よりも優れた業績をなしとげたり有力は地位にのぼった人で、嫉妬から無縁の過ごせた者はいない。
 ただし、嫉妬は、それをいだいてもただちに弾劾や中傷という形をとって表面化することはまずない。
 嫉妬は隠れて機会をうかがう。
 機会は、相手に少しでも弱点がみえたときだ。
 スキャンダルは、絶対に強者を襲わないのである。



 歴史を後世から眺めるやり方をとる人の犯しがちな誤りは、歴史現象というものは、その発端から終結に向かって実に整然と、つまり必然的な勢いで進行したと考えがちな点にある。
 ところが、ほとんどの歴史現象は、そのように綺麗に進むことはない。
 試行錯誤を繰り返し、迷って立ち止まって、まったくの偶然でとある方向に曲がったりしたあげくに、後世から見ると必然と思われる結末にたどりつくものなのである。

 第二次ポエニ戦争でローマに敗れ以来半世紀の間というもの、カルタゴ人は、ローマの覇権の許で平和に生きてきた。
 このカルタゴの滅亡は、二重にも三重にも重なりあって起こってしまった、不幸な偶然がもたらした結果であったとしか思えない。

 カルタゴを滅亡させたことによって、ローマはまもなく、新たな問題を抱え込むことになる。
 それはヌミデイア(現アルジェリア)の強大化に歯止めをかけることのできる存在を、抹殺してしまったことにあるからである。



 すべては、紀元前264年からの第一次ポエニ戦役に始まった。
 カルタゴをくだして西地中海の覇者になった「ハンニバル戦争(第二次ポエニ戦役)」終了後から数えれば、ローマが全地中海の制覇に要した歳月は、70年足らずにすぎないのである。
 ポリビウスならずとも驚くべき現象であり、当時の多くの人びとも、想いはおなじであったろう。
 
 すべては、ハンニバルから発するのでらう。
 130年間を取り上げた本書でも、16年間でしかない第二次ポエニ戦役の叙述に、巻の2/3の紙数が費やされている。
 歴史家リヴィウスも、著作『ローマ史』の中での「ハンニバル戦争」に費やした分量を振り返って、この戦争のローマ人に与えた影響の大きさを、改めて再認識しているほどだ。

 ローマの壊滅を生涯の悲願としたハンニバルは、他の誰よりもどの国よりも、ローマを強大にするのに力を貸してしまったことになる。
 地中海全体を、これほども短期間のうちにローマ人の「われらが海:マーレ・ノストウルム」にしてしまったのは、ハンニバルであったとおもうしかない。

 しかし、成功者には、成功したがうえの代償がつきものである。
 ローマ人も、例外ではなかった。
 『ローマ人の物語』のⅢ巻になる次の巻では、覇者になって以後のローマ人の所行を書いていくつもりである。






[ ふみどころ:2012 ]



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